島津家に対する琉球・沖縄人の見方・考え方を違う視点からの考察・解説
源頼朝の島津家
源頼朝(1147~1199)は平安時代の平治の乱で父・源義朝とともに敗れました。
その後、源頼朝は伊豆で約20年の流人生活を送ります。
伊豆で北条時政の娘、北条政子(1157~1225)と結婚します。
その後、源頼朝は、平家を滅ぼし1192年に鎌倉幕府を樹立します。
源頼朝は、七年後落馬がもとで1199年に亡くなります。
政子との間で生まれた頼家・実朝は将軍になるが周囲と上手くいかず最後 は非業の
死を遂げます。
その後、北条政子と北条一族が政治を行います。
源頼朝の父、源義朝に仕えた比企掃部允が源頼朝の乳人に選ばれ、
その妻の比企尼 が 頼朝の乳母でした。
比企掃部允と比企尼の娘で比企能員の妹が丹後局(たんごのつぼね)です。
島津家初代当主島津忠久
源頼朝と丹後局(たんごのつぼね)との間に子ができます。
妻の北条政子の逆鱗にふれ身ごもった丹後局(たんごのつぼね)は追放されます。
丹後局(たんごのつぼね)は逃げる途中で男の子をうみます。
名前は三郎となずけられました。
三郎の母、丹後局(たんごのつぼね)の再嫁先の惟宗広言(これむねひろこと)の
下で三郎は育てられます。
七歳の時、父である源頼朝に鎌倉であい、元服に際して惟宗忠久(これむねただひ
さ)と名乗ります。
源頼朝の息子惟宗忠久(これむねただひさ)が、島津家初代当主 島津忠久です。
島津忠久と琉球の関係
源頼朝の息子 島津家初代当主 島津忠久と頼朝の叔父さん為朝の子供、琉球王の舜
天とは従兄弟どうしです。
島津忠久(1227年死亡)から382年後
島津忠久(1227年死亡)から382年後、1609年樺山久高の約三千の兵で大島、琉球へ出兵
当時の奄美群島は、琉球の支配下にありました。
島津は奄美大島を侵略することで、琉球本国への圧力をかけるつもりでした。
当時の島津家では、家督をめぐって義久と義弘とその息子家久、その関係者たちの間で争いがありました。
出兵に慎重な義久と島津氏当主家久派との間で出兵の議論の結果が出ない時に、1608年に徳川幕府からの命令で、琉球出兵になりました。
1609年3月に薩摩各地から総勢約三千の兵が集まり、総大将に樺山久高、副将に平田増宗のもと約百隻の船が大島を目指して出陣して行きました。
琉球源氏は島津に敗れ島津源氏の支配下におかれました。
382年間に島津家、琉球にどのような変化がおこったのか
源頼朝の息子の島津家初代当主島津忠久1227年の死から382年後琉球征伐がおこりました。
琉球も382年間で琉球内部で変化が起こりました。
源頼朝の死により鎌倉幕府を支えてきた武将達が北条家の迫害を受けて殺されたり九州、琉球方面に逃れて生き延びて源氏琉球に影響を及ぼします。
中国からの渡来久米三十六姓(技術集団)などチャンプルー源氏倭国琉球がしあがります。
琉球出兵後の総大将樺山久高、副将平田増宗の運命
琉球出兵 総大将樺山久高は主君・家久に無視され、寛永11年(1634年)病死しました。75歳でした。
副将平田増宗は慶長15年(1610年)家久の命令で増宗を上意討ちするよう命令があり射殺されました。
平田増宗の子、弟らが悉く処刑され、平田氏の嫡流のみ断絶、三男は琉球国に流刑、その後、勝連平敷屋の南側の砂浜で打ち首になったと言い伝えられています。
まとめ
琉球天孫25代の後、源頼朝の叔父さん源為朝の子、舜天王源氏琉球の時代が始まりました。
九州では源頼朝の息子 島津忠久が島津家初代当主になりました。
舜天王源氏琉球と源頼朝の息子島津家初代当主島津忠久後の382年間は、琉球と島津家は大きな争いもなくいい関係を維持していました。
382年間で起こる世界遺産勝連城の主、先祖、鎌倉に希望を夢みている倭国源氏の城を書きます。