琉球・沖縄の血縁集団、門中は正月、旧盆に本家に集まり、
ご馳走を食べながら門中皆で
一族の健康、子孫繁栄の行事をこなします。
シーミー(清明祭)の時は、門中墓で一族が和やかにご馳走を広げ
墓の中の先祖に
先祖供養と一族の繁栄の姿を報告します。
先祖と一族皆でご馳走を食べ血族の絆を確認しあいます。
第一尚家初代尚思紹王統(1406~1465)
永楽四年即位(1406年)中山王となる。在位16年、1465年死去。
神号:君志真物。
居所は御子と同じ玉骨は佐敷村の上侠利西の方の岩下の墓に埋葬し奉る
苗代大親、佐敷按司、佐敷大按司とも称する。
思紹(=苗代大親)佐敷村の美里子の娘と三男一女を生む。
長男 尚巴志
二男 美里大親 後美里按司となる。
三男 平田大親 他魯毎征伐のとき戦没
四男 与那原大親
五男 手登根大比屋
長女 佐敷祝女(俗称馬天大ノロコモイ)
父 鮫川大主(田名大主也)
伊平屋島田名村の根所にあり。
伊是名島(前島とも言う)の人なり。
伊平屋島(葉壁島、後島とも称する)の我喜屋村に住む。
それから今帰仁間切り親泊村に往き、島尻に向かう。
中頭地方北谷間切り同村で一泊する。気に入り定住するが
夢のお告げで東南の方向に向かい佐敷間切新里村馬天浜の地にたどり着いた。
浜の阿坦山に小屋を作り住む。
魚を捕って、大城村の城主、大城按司に魚を度たび売っていました。
按司の娘に気に入られ、按司に反対されるが、娘が親を説き伏せて
夫婦となることが許されます。
佐敷間切新里村馬天の地に夫婦は住みか構えました。
大城按司の娘は一男一女を生みます。
男子は思紹といい、女子は馬天祝女と称しました。
思紹が成長し佐敷間切苗代村に移り苗代大親と呼ばれます。
二代尚巴志王
1372年生まれ1422年(51歳)に即位、1439年(68歳)で死去する。
山南王他魯毎を滅ぼし、三山を統一する。
明帝から皮弁冠服(国王の礼服)、「尚姓」がおくられる。
母は佐敷同村美里子の女子也。
玉骨は伊良皆佐敷村神宮城に埋葬せらる。
居所は浦添極楽寺也。
一説には骨は具志頭村の岩下の穴内に埋葬し奉られる
尚巴志の御子
当山大屋子 母は佐敷新里村の後並里の女子なり。
長男 当山里主 在所は宜野湾野嵩村当山と云ふ家也。
二男 桃原大屋子 在所は宜野湾新城村に住す。
三男 松田親雲上浦添城間村に住す
伊波按司 母は美里按司の娘なり。
在所は美里伊覇村根屋にある。
この按司は北山より来りたる祖先の世子となる。
御子は五男二女あり。
長女佐司笠按司加那志
六男尚布里
尚志魯と王統争い共に追放。
伊平屋勢理客村に行き隠居せらる。
居所は上原と云ふ家なり。
四男八重瀬城主
二男三代尚忠王 1391年生まれ1440年(50歳)即位、在位5年、1444年(54歳)死去
在所は読谷山村伊良皆根人屋と云ふ家也。
死骨は読谷山村獄内岩下の墓に埋葬せらる。
即位前は北山監守を命ぜら今帰仁城を居城とした。
尚忠王御子は下記の如し
四代尚思達王
1408年生まれ1445年(38歳)で即位、在位5年、1445年(42歳)で死去する。
世子なきに因り叔父金福を王位に登る。
王の墓は嘉納作山の内田場宮城の神元祖也。
座喜味按司
在所は読谷山楚辺村大屋也。
長男上間親雲上
二男城間親雲上
三男名嘉地親雲上
他に四名いるらしい。データー無し
喜屋武按司
王統一件で具志頭新城村に隠居、母は同村の根神新垣の女子也。名は真牛と言う。
妻は真和志上間村外間の女子なる。
後裔は尚徳王の孫、安謝里子の四男外間親雲上が相続する。
親雲上の後代は翁氏佐久間親方のご奉公し佐久間の名字を付ける。
三男具志頭按司
母は美里按司の女子なり。
居所は具志頭同村の照屋と云ふ家也。
玉骨は喜納の東慶念堂神阿謝伊波にあり。
五男五代尚金福王
長男の尚志魯は王統一件に付て叔父の布里親方と争い共に追放、
因って読谷山喜名村から尚志魯は中城渡具知村に行き住む。
時を経て知花大主の七代目の入り婿となり中城熱田村に行き住す。
居所は中城熱田村の仲本と言う家なる。
仲本は尻しぼみし、後代世子なく、今帰仁中城(現仲尾次)村から入り婿を迎え子孫繁栄する。
城間按司
母は美里知念村根所の女子也。
長男又吉按司先祖は野原也。
楚南按司
この按司は奉公中に自殺する。
玉骨は美里楚南村の後ろ岩上は墓に埋葬せられる。
外間里主
里主は今帰仁城を守り、後は佐敷津波古村に住む、
長男小禄村に住む
二男中城村伊集村に行き住む。
三男国頭辺土名村仲間と云ふ家に住む
四男与那城伊計村に住む
五男伊平屋諸見村に隠居
六男宜野湾喜友名村に住む
七男真和志国場村に住む
与那城按司
居所は浦添沢岻村屋敷囲い初めてされた沢岻村の新垣と云う家にある。
長男親富祖大屋子
二男上間親雲上
三男内間大屋子
野国大主
母は北谷野国村神里の女子なり
野嵩大主
母は野嵩村根所の女子也
喜屋武按司
母は美里知念村の奴留也。
中城熱田村の根所にある。
子は七男ニ女子あり。
真和志按司
母は真和志国場村の女子也。
真和志安謝村に住み。
後真和志上間村安謝名と云ふ家を相続する。
子は七男一女あり
天久掟親雲上
母、北谷桑江村与那城屋の女子也。
居所は真和志国場村根神屋にある。
伊礼親雲上
居所、北谷屋良村奴留也。
在所、伊平屋島諸見村にある。
七男六代尚泰久王
もとは越来按司ですが大明景泰五年に即位。
居所、読谷山伊良皆村根人屋と言う所也
玉骨は読谷山伊良皆村の獄内岩の墓地に埋葬し奉る。
一説には玉骨は伊波仲門浮母の墓神屋良にある。
尚巴志七男で大明永楽十三年生まれ、本来は前田按司ですが四十歳でご即位する。
御子伝説記す
座喜味親方
安次里金橋に隠れ玉ふと。
子は五男二女おり
五男は伊平屋勢理客村の仲里と云ふ家なり。
当山里主
後城間親方と号す。
居所は真和志国場村の城間と言う家にある。
浦添親方
浦添沢岻村で一男一女を生み、
中城伊集村に隠居し世を終わる。
居所は新垣と云ふ家也。
楚辺親雲上
母、読谷山楚辺村大屋の女子也。
居所は宜野湾謝名の世持と云ふ家也。
三世の時世子なく同村天久と云ふ家の子を養育して
桃原大屋子の後を相続する。
その長男宜野湾嘉数村の知花主が婿となりその村で世を終わる。
勢理客大主
母は伊是名村東江の女子也。
居所は伊是名村の端に住み後伊是名村の名嘉と云ふ家也。
長男安次富金橋
玉城間切当山村、屋良と云ふ家に祀られる。
二男三津葉多武喜
玉城間切富里村、大仲栄真家に祀られる。
三男七代尚徳王
大明天順五年ご即位
元祖の御墓地は真和志間切上間の安座名にある
子孫の元祖は浦添間切小湾の後家にある。
四男八幡加那志
五男江洲王子(江洲按司)
六男尚 武
武姓嘉陽の元祖なり
長女西按司加那志(百十踏踏揚按司)
護佐丸の娘とのなり。
勝連按司阿麻和利の妻となる。
後は鬼大城の妻となる。
次女当按司加那志
林鳳に嫁ぐ
根所とは一族の本家の事である。元々其地方の豪族であつた。
参考文献
古琉球三山由来記集
琉球祖先宝鑑
まとめ
今回は第一尚家の初代尚思紹王統の御父上から尚思紹の子ども
その子供の子まで記しています。
沖縄では、例えば二代目の尚巴志の御子七男尚泰久
その子供の七男尚徳王の子六男の尚武の子孫が武姓嘉陽の元祖なりとあります。
尚武の元祖の本家があり、墓も受け継いでいる場合と別の場所に墓がある場合があります。
七代の三男尚徳王の場合元祖の墓地は真和志間切上間の安座名にあり
子孫の元祖は浦添間切小湾の後家にある。
門中とは、その血族が現在まで受け継がれているということです。
最後まで読んで頂き有難うございました。