魏志倭人伝の卑弥呼、日本書記の神功皇后の倭の女王卑弥呼とは

天孫琉球

神功皇后(201~269年)応仁天皇の母、日本書記 巻第九

四十六年(245年)春三月一日皇后の遣い斯摩宿禰を卓淳国(国慶尚北道大邱市近辺)に送った。
卓淳の王、未錦早江岐が、皇后の遣い斯摩宿禰に興味ある話をした。

甲子の年(244年)の七月中旬、百済王の遣いで百済人の久氐・弥州流・莫古の三人が卓淳国(国慶尚北道大邱市近辺)にきた。

百済王は、東の方に日本という貴い国があることを聞いて、われらを遣わせてその国(卓淳国)に行かせた。
吾々に道を教えて、通わせて頂ければ、わが王(百済王)は深く君を徳とするでしょう。

百済王は久氐らに語った「以前から東方(洛陽から東方)に貴い国があることは聞いていた。」
まだ交通が開けていないので、その道が分からない。海路は遠く波は険しい。
大船に乗れば何とか通うことができる。途中に中継所があっても、かなわぬことである。

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卓淳国への皇后の遣い斯摩宿禰が聞いた話

三十九年(239年)、この年太歳己 未。 魏志倭人伝によると、明帝の景初三年(239年)六月に、
倭の女王は大夫難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢をもっきた。
太守の鄧夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。斯摩宿禰は日本に帰り皇后に報告をした。

神功皇后(201~269年)日本書記 巻第九に斯摩宿禰が話された内容記載済み

神功皇后(201~269年)巻第九

仲哀天皇の二年に皇后になられた。
九年(208年)春二月、仲哀天皇が亡くなられた。 

筑前怡土郡の道

新羅出兵 秋九月十日
新羅の王「東に神の国があり、日本というそうだ。聖王があり天皇という。」
白旗をあげて降伏する。
重宝の倉を封じ、地図や戸籍を没収した。

新羅王の波沙寝錦(寝錦は王の意味)は貢ものを沢山、日本に送っている。
高麗、百済もこのことを知り日本には勝てないと悟る。

五(205)年春三月七日、新羅王が汗礼斯伐、毛麻利叱智、富羅母智らを遣わし朝貢した

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倭の女王の遣い、神功皇后(201~269年) 巻第九に記載済み

三十九年(239年)、この年太歳己 未。 魏志倭人伝によると、明帝の景初三年(239年)六月に、
倭の女王は大夫難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢をもってきた。
太守の鄧夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。

四十年(240年)魏志にいう。正始元年(240年)、建忠校尉梯携らを遣わして詔書や印綬をもたせ倭国に行かせた
四十三年(243年)、魏志にいう。正始四年(240年)、倭王はまた使者の大夫伊声者掖耶ら、八人を遣わして献上品を届けた。

四十六年春三月一日卓淳国(大邸にあった)に遣いをやった。
四十七年夏四月、百済王は久氐・弥州流・莫古を遣わし朝貢した。
そのとき新羅の国の調(みつぎ)の使いが一緒にきた。
四十九年卓淳国と一緒に新羅を討ち破る。
五十一年春三月、百済王は久氐を遣わし朝貢した。
五十五年、百済の肖古王が薨じた。
五十六年百済の皇子貴須が王になる
六十二年新羅が朝貢しなかった。
新羅を討たせるが、加羅国を討つ。
六十四年百済国の貴須王が薨じた。王子枕流王が王になる。
六十五年百済の枕流王が薨じた。王子阿花が若く叔父辰斯が位を奪い王になる。

六十六年(266年)この年は晋の武帝の泰初二年(266年)である。晋の国の天子の言行などを記し
起居注に、武帝の泰初二年十月、倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している

六十九年(269年)夏四月十七日、皇太后が崩御された。年百一歳。 

魏志倭人伝の倭の女王、卑弥呼

その国は、元々は、また(狗奴国と同じように)男子を王と為していた

居住して七、八十年後、倭国は乱れ互いに攻撃しあって年を経た。

そこで、一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という。
鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わせた。

非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている
王となってから、まみえた者はわずかしかいない。

侍女千人を用いるが(指示もなく)自律的に侍り、ただ、男子一人がいて、飲食物を運んだり言葉を伝えたりするため、女王の住んでいる所に出入りしている。

宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に人がいて、武器を持ち守衛している。

女王国の東、海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、倭種である。
また、侏儒国(大東島)がその(女王国の)南にある。人の背丈は三、四尺(72㎝~96㎝)で、女王国を去ること四千余里。
また、裸国と黒歯国があり、また、その(女王国の)東南にある。船で一年行くと着く。

「女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有りて、皆、倭種。又、侏儒国有りて、その南に在り。人長は三、四尺。
女王を去ること四千余里。又、裸国、黒歯国有りて、復、その東南に在り。船行一年にして至るべし。」

 倭地を考えてみると、遠く離れた海中の島々の上にあり、離れたり連なったり、巡り巡って五千余里ほどである。

「倭地を参問するに、絶えて海中の洲島の上に在り。或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかり。」

景初二年(238)六月、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、天子にお目通りして上品をささげたいと求めた。
太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米等を引率して送らせ都(洛陽)に至った。その年の十二月、詔書が倭の女王に報いて、こう言う。
 

制詔、親魏倭王卑弥呼。

帯方太守、劉夏が使者を派遣し、汝の大夫、難升米と次使、都市牛利を送り、汝の献上した男の生口四人、女の生口六人、
班布二匹二丈をささげて到着した。汝の住んでいる所は遠いという表現を越えている。

すなわち使者を派遣し、貢ぎ献じるのは汝の忠孝のあらわれである。
私は汝をはなはだいとおしく思う。今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し(与え)、装封して帯方太守に付すことで仮(かり)に授けておく。
汝は種族の者を安んじ落ち着かせるそのことで、(私に)孝順を為すよう勉めよ。汝の使者、難升米と牛利は遠くから渡ってきて道中苦労している。
今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利は率善校尉と為す。

銀印青綬を仮し(与え)、引見してねぎらい、下賜品を与えて帰途につかせる。
今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献じた貢ぎの見返りとして与える。

また、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を下賜し、皆、装封して難升米と牛利に付す。
帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。
そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。

「景初二年六月、倭女王は大夫、難升米等を遣わして郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。
太守、劉夏は吏を遣わし将(ひき)い送りて京都に詣る。その年十二月、詔書が倭女王に報いて曰く。」

 正始元年(240)、(帯方郡)太守、弓遵は建中校尉梯儁等を派遣し、梯儁等は詔書、
印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬)を捧げ持って倭国へ行き、これを倭王に授けた。

並びに、詔(=制詔)をもたらし、
金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を下賜した。
倭王は使に因って上表し、その有り難い詔に感謝の意を表して答えた。

その(正始)四年(243)、倭王はまた大夫伊聲耆、掖邪狗等八人を派遣し
生口や倭の錦、赤、青の目の細かい絹、綿の着物、白い布、丹、木の握りの付いた短い弓、矢を献上した。
掖邪狗等は等しく率善中郎将と印綬を授けられた。

正始六年(245)、詔して倭の難升米に黄色い軍旗を賜い、帯方郡に付して仮に授けた
 
正始八年(247)、(弓遵の戦死を受けて)帯方郡太守の王頎が着任した

倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。

(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣し、張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。

卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴隷、百余人である。

さらに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。

また、卑弥呼の宗女、十三歳の壱与(イヨ)を立てて王と為し、国中が遂に安定した。
張政たちは檄をもって壱与に教え諭した。
壱与は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた

そして、臺(中央官庁)に至り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、模様の異なる雑錦二十匹を貢いだ。

参考文献
日本書記(上)全現代語訳
著者:宇治谷 孟

魏志倭人伝

まとめ

百済、新羅、卓淳国、日本の神功皇后(201~269年)、倭の女王とは、個々判断し楽しんで下さい。

日本国は百済、新羅、卓淳国との経済、政治の関係が始まったばかりのように感じられます。
倭国のことは、まだ認識が薄い様に思えます
日本国と倭の卑弥呼とは別の国の様に思えます。
洛陽から東方の貴き国の方角の誤解が、貴き国の憧れを求め探した国、場所が日本だったのが
今回も百済王国によく表れています

仲地弘和
家系
氏集首里・那覇
八番31頁 白氏 名乗頭字・信
大宗白楊基 金城親雲上信懐
家紋:武田菱、四つ割菱
勝連濱川按司御子二男勝連「屋慶名主(楊布主)」

前原高校を経て
琉球大学農学部卒業

調査に月日を重ね続けるなか
うるま市郷土地元と琉球の歴史に興味が湧き
資料を集め30年が過ぎる。

その資料を再考察し自分が感じた事
先祖の歴史を基礎に、
琉球の先人達
郷土史家伝説の資料から導き出した
自分独自の琉球歴史観を記しています。

少しでも琉球郷土史に興味を抱いている方々の
参考にしていただけたらと思い書いています。

学問的に歴史研究家
先生方に師事し学んで無いので
多々間違いも多くあるものと思います。
参考程度で読んでもらえたら幸いです。

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