2020-10

琉球按司系図

大新城親方安基とは、どんな人物なのか

大新城親方安基 尚真王の長男として生まれるが、下りて臣籍となる。 尚元王は幼少の時、病弱のために、王府内に王位継承に反対する動きがあった。 三司官の一人、新城親方安基が反対論を押し切り世子尚元を即位させた。 羽地間切の総地頭職を務める
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牧志恩河事件、薩摩藩主島津斉彬の軍備増強で琉球で起こる事件

牧志恩河事件、薩摩島津斉彬が軍備増強を図り琉球王府で起きた事件 反薩摩派の三司官の座喜味盛普(唐名は毛恒徳)の罷免し 交代人事で親薩摩派は、慣例を無視する昇進速度で、 牧志朝忠(唐名は向永功)を日帳主取(外務次官に相当)に任命した。 薩摩藩主島津斉彬が急死することで島津の政変が琉球にもおよび 斉彬派(親薩摩派)の琉球官僚にも悲劇が起こります。 それが牧志恩河事件です。
琉球按司系図

孫の尚維衡を祖母おぎやかは王即位から外したのは何故

尚維衡(=浦添 朝満 1494年~1540年) 尚真王の長男。向氏小禄御殿の元祖。 父王尚真の世子であったが、廃嫡され、結局王位を継ぐことはなく、尚真王が亡くなると弟の尚清が即位し4代目王となった。 廃嫡の原因1.尚真の...
琉球按司系図

護佐丸一族は天孫氏後裔惠祖世主か北山大按司(大舜)どちらなの

中城按司護佐丸一族は天孫氏後裔惠祖世主か源為朝の北山大按司(大舜)のなのか二つの見方がある。それは英祖王二男湧川王子に起因するとみています。まず結論から申しますと、二つの流れの見方は正しいと思います。 義本王の三男なる今帰仁城主は二...
天孫琉球

倭国が何故、流求国と呼ばれるようになったのか

当時の日本は高句麗、新羅、百済など朝鮮半島の国々に対して、朝貢を受け入れる国として力強い気概がある。しかし中国、隋の国に対し、朝貢国日本としての付き合い方の経験、知識が無く、対処の仕方で失敗をしている。 隋の国に対し朝貢国日本になる...
天孫琉球

五人の倭王と日本國の天皇、日本書記での天皇と同じ人物か照合した

西漢の時に中国と日本は付き合い始めました。その時、中国はとても強い国でした。 西晋泰の始二年(西暦266年)(神功皇后 201~269年)頃から、中国、中原王朝の衰退が始まり、日本は中国との交流を停止した。 倭の五王と日本書記...
天孫琉球

魏志倭人伝の卑弥呼、日本書記の神功皇后の倭の女王卑弥呼とは

神功皇后(201~269年)応仁天皇の母、日本書記 巻第九 四十六年(245年)春三月一日皇后の遣い斯摩宿禰を卓淳国(国慶尚北道大邱市近辺)に送った。卓淳の王、未錦早江岐が、皇后の遣い斯摩宿禰に興味ある話をした。 甲子の年(2...
天孫琉球

邪馬台国は「魏志倭人伝」の「東夷伝」倭人の条で琉球にあった 。

晋(しん、265年 - 420年)(西晋)の陳寿(233~297年)の古い時代に編集したもの。 歴史の事実が在り、「 魏志倭人伝」の「東夷伝」倭人の条を下記載を個々で読んでもらい、 ありのままの文を、素直に客観的に読み判断していただきたい。 倭国、邪馬台国が何処にあるかを 本来の倭国琉球は、もう存在しません。 晋(しん、265年 - 420年)(西晋)の陳寿(233~297年)の編集によるもの 倭国琉球の歴史を現在の沖縄で少しでも積み重ねたいです。 今回、少しきずきましたが、 倭国時代に使われていた名前などが残っていることに気ずきました。
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