孫の尚維衡を祖母おぎやかは王即位から外したのは何故

琉球按司系図

尚維衡(=浦添 朝満 1494年~1540年)

尚真王の長男。向氏小禄御殿の元祖。

父王尚真の世子であったが、廃嫡され、結局王位を継ぐことはなく
尚真王が亡くなると弟の尚清が即位し4代目王となった。

廃嫡の原因
1.尚真の母:祖母おぎやかの思惑によるもの(自分の孫の即位を阻む祖母はいない。それは事実か)
2.二度目の尚真夫人である思戸金按司(華后)の計略によるもの。
(自分の子を王にするのは母の夢だから。それは考えられます。)

王位継承を巡って身内の骨肉の争いがあり、朝満はその戦いに敗れたということであろう。
1,2の影響もありますが第3の考え方を提案します

3.尚維衡の母居仁の一族に対する源氏一族の周辺の反感が影響したのではないかと考えます

死後、浦添ようどれに一旦葬られるが
後に弟の尚清王によって王家の陵墓、玉陵へ移葬された

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尚真王(1465~1477即位~1526年没)

在所並びに玉骨は父尚円王(1415生~1470即位~1476年没) と同じ所
 
尚真王の業績、地方に城を構えていた豪族、諸按司皆、首里に移住させ武備を廃した。
円覚寺、玉御殿を建設する

妹:翁主聞得大君加那志 号月 (清音智殿茂金)
母:宇喜也嘉(おぎやか)

尚真王の御子

尚維衡
 母:居仁(尚宣威の娘)、
 与那城王子朝満、宜野湾王子元祖で
 ある
 与那城王子朝満(尚維衡)他の外子
 天久親雲上、諸見里親雲上、伊礼親
 雲上、東江大屋子、真壁親雲上、川
 平親雲上、仲里親雲上、内間大屋子
 勢理客大主、仲村親雲上

尚真王三男韶成
 今帰仁王子朝典具志川按司の元祖で
 ある。
 母は不伝

尚真王二男朝栄(大里王子)
 母は不伝。

 大里王子は行方知れず。
 王統の一件に不服反対で伊江島へ
 ご隠居せられたとのこと

尚真王四男龍徳(竜徳)
 母は不伝。
 越来王子朝福喜屋武按司の元祖なり

尚清王
 母、華后

尚真王六男亨仁
 母は不伝
 金武王子行方知れず。
 王統一件で不服反対で伊平屋伊是名
 村で世を終わる。
 在所は名嘉と言う家にある。

尚真王長女翁主
 母は銘苅子の女子である。
 佐司笠按司加那志慈山と称する。
 美里王子朝易の室である。

毛氏池城親方(安基
 王の長男に生まれるが下りて臣籍と
 なる。
 新城親方安基は、母は儀保大阿母志
 良礼の子とされるが、
 尚真王が今帰仁巡察のおりにお手掛
 けした神女との間に生まれた子とい
 う伝承がある。
 毛氏 池城殿内は、唐名・毛龍唫、
 新城親方安基を元祖とする琉球王国
 の士族(首里士族)。
 毛氏池城の大宗家(本家)、
 名乗頭は「安

小那覇親雲上
 母、西原嘉手苅村名嘉の女子である
 御子
 長男小那覇里主、次男安里親雲上、
 三男東江大屋子、四男國頭親雲上、
 五男仲里親雲上がいる。

瀬底親雲上
 母、西原小那覇村大屋の女子である
 在所、与那城上原から後東風平高良
 村野原の家にある。

親富祖大屋子
 母、真和志多和田奴留である。
 妻、城間村仲村渠の女子である。
 在所天久村屋冨祖と言う家にある

参考文献
琉球祖先宝鑑
著者:慶留間知徳

尚真王の父の家族

尚真王の父尚円の長男兄の大米須親方に三人の兄弟
二男が上間親方
三男本人尚円王
四男尚宣威である

大米須親方の父、王考尚穆
大米須親方の母、瑞雲世
父祖、父母、母は伊平屋伊是名島諸見村安佐慶(神アシャゲ)の女子である

大米須親方の子供、孫で氏名、名乗頭字の違いは何故

大米須親方は息子の米須里主と一緒に本部渡久地に来ました。

米須里主は結婚し御子米須子が生まれ
米須子の長男が顧氏比嘉筑登之親雲上助輝である

米須里主は辺士名ヌルと翁氏国頭親方盛順も授かりました。

米須里主は喜界島大屋子を勤める

米須里主の御子は、米須子と辺士名ヌルとの御子翁氏国頭親方盛順がいます
米須子の御子は顧氏比嘉筑登之親雲上助輝である。

氏名が翁氏顧氏二つあるのは違和感があります。

米須里主は元々は顧氏か米須子の妻方が顧氏で名乗頭字が「助」なのか
辺士名ヌルとの子は翁氏で名乗頭字が「盛」です。

当時は長子以外は、母方の氏名、名乗頭字を名乗っていたのか

長女・居仁(尚真王妃)の生い立ち

父尚宣威王(1430年生~1477即位~1477年没)
琉球国王、神号 西之世主、諡 義忠
生まれ地、伊是名島諸見村
隠居地:越来間切
父親 尚稷
母親 瑞雲

家族
長男・尚儲、越来王子朝理(号・号岩。向氏湧川殿内一世)
次男・尚鼎、見里王子朝易(号・浄叡、兄朝理の家督を継ぐ)
長女・居仁(尚真王妃)

喜界島の平 有盛の子孫

平 有盛(たいら の ありもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。
氏族桓武平氏維衡流(伊勢平氏)主君安徳天皇、兄弟維盛、資盛、清経、有盛、師盛、忠房、その他

平有盛は喜界島の当時の頭領四人兄弟の惣兄の女子を側女となし、男子出生し名を勘樽と称した
時を経て勘樽金は島の頭領になり花良治へ居住する。
今も屋敷跡が残り永語屋敷と云ふ。

伝説
奄美群島には資盛、行盛、有盛が落ち延びたという平家の落人伝説がある。
行盛神社、有盛神社、資盛の大屯神社が祀られている。

尚真王の父尚円王の長男兄の大米須親方、弟尚宣威等は喜界島に住んでいた
尚宣威は娘居仁を生むが、母はよく知られてな

尚真王と尚宣威の娘居仁との御子を喜界島にいた平有盛の伊勢平氏の祖、桓武平氏維衡流(伊勢平氏と同じ名前を付けたのは何故か

尚維衡と名付けたのは偶然には思えない。
琉球王朝の平家再興を期待していたのか

仮説の証明

尚宣威王(1430年生~1477即位~1477年没)
琉球国王、神号 西之世主、
諡 義忠
伊是名島諸見村
隠居地、越来間切

(おくりな、(し)、あるいは諡号(しごう、諡號)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る生前の事績への評価に基づく名のことである

義忠を諡号として尚宣威王に奉られた。

義忠は河内源氏の屋台骨を支え、僧兵の京への乱入を防ぐ。
また、新興の伊勢平氏と折り合いをつけるべく、平正盛の娘を妻にし平家との和合をはかり、
また妻の弟で平正盛の嫡男の烏帽子親となって「忠」の一字を与え「平忠盛」と名乗らせるなど、平家と親密な関係を築いた。

そして、院政にも参画しつつ、従来からの摂関家との関係も維持すべく努力した。
その結果、「天下栄名」と評せられる存在となった。

参考資料

源義忠 - Wikipedia

源義忠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

平忠盛 - Wikipedia

平忠盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

尚宣威王の諡号源義忠平忠盛(平安時代末期の武将。平清盛の父。烏帽子親は義兄の源義忠)
上記のウィキペディア源義忠、平清盛の父平忠盛を読んで頂けたら納得されます

尚宣威王も同族源氏で暗殺されたものと確信した。
母居仁も父と同じ道を歩まされたのかも

まとめ

今回、尚宣威王の諡号義忠で尚維衡が王即位を阻まれたことに納得できました。

尚真王と尚宣威の娘居仁との御子を喜界島にいた平有盛の伊勢平氏の祖、桓武平氏維衡流(伊勢平氏)と同じ名前を孫に名付けたのは確信に変わりました。

尚宣威王も暗殺されたことも確信しました。
多分、娘居仁も父と同じ道を行ったのでしょう
最後まで読んで頂きありがとうございました。



仲地弘和
家系
氏集首里・那覇
八番31頁 白氏 名乗頭字・信
大宗白楊基 金城親雲上信懐
家紋:武田菱、四つ割菱
勝連濱川按司御子二男勝連「屋慶名主(楊布主)」

前原高校を経て
琉球大学農学部卒業

調査に月日を重ね続けるなか
うるま市郷土地元と琉球の歴史に興味が湧き
資料を集め30年が過ぎる。

その資料を再考察し自分が感じた事
先祖の歴史を基礎に、
琉球の先人達
郷土史家伝説の資料から導き出した
自分独自の琉球歴史観を記しています。

少しでも琉球郷土史に興味を抱いている方々の
参考にしていただけたらと思い書いています。

学問的に歴史研究家
先生方に師事し学んで無いので
多々間違いも多くあるものと思います。
参考程度で読んでもらえたら幸いです。

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