源為朝琉球一族、子孫の祖先供養場所・自分ルーツ資料照合基礎編

琉球按司系図

琉球では為朝は伝説ではなく、一族・子孫達の思いを 先祖の地をお訪れ、
手を合わせ、供養と子孫繁栄のお願いをします。

各子孫の墓・手を合わせる根所があります。
時代の流れでその習慣も薄くなり消えかかっています。

源為朝琉球一族、子孫の祖先供養場所・自分のルーツ資料照合基礎編です。

御持は崇元寺(記念の為朝矢尻を宝蔵せらる)
玉骨は東大里村食栄盛の御岳内に埋葬されると。
また行方不明とも言ふ。

スポンサーリンク

源為朝①の御子

実久三次郎② 

加計呂麻島、実久の娘との子

奄美大島の西古見の港に漂着の後、 臣下引き連れ加計呂麻島に行く、

実久と言う家にしばらく滞在、
実久には絶世の美人の娘がいて、この娘と通じて翌年一男を生む。

名は三次郎となずける。
俗に実久三次郎と称する。

永良部世主② 

永良部祝女との子
俗称永良部王
美豆之比屋の元祖なる。
永良部島のノロと一夜を過ごし、
翌年,永良部世主(永良部王を生む。
 
在所は玉城村の普天間と云ふ家也。
永良部主の子永良部美豆之比屋という
 
その子、成長後、玉城間切の奥武村に船を着け、
同仲栄真村から玉城城に攻め入り、さらに東垣花城の攻め入る。
両城焼き払い征服する。
玉城世主と称し、玉城間切りを治める

永良部王の御子 
1.玉城按司③
 長男大城按司④
 二男津嘉山親方④
 三男国場親方④
 四男高安親方④
 五男名嘉地親方④  

2.糸数按司③
 長男船越按司④
 二男高嶺親方④
 三男新川親雲上④
 四男大見武親雲上④
 五男城間親方④
 糸数村に住む
 

3.前川按司③
在所、豊見城平良村高嶺村屋敷囲い初められそので住まわれる。
今の在所は勝連と云ふ家なり
 御子は四男二女なる。

 

4.布里按司③
豊見城饒波村高安村屋敷囲いされ饒波村に住む下門と云ふ家なり。
後に大屋と云ふ家なるが
其の後五代目世子無く同村の根所金城の先祖饒波親方の二男養子に迎える
 

5.中城親方③
中城和宇慶村同伊集村屋敷囲い初められ住まわれる。
在所は新埋と云ふ家なり  
長男与那城高離村に行く
二男が相続する

6.久高大主③
漁師になり伊平屋田名村に住む
在所は根所の安佐慶と云ふ家なるが
後末裔五代は鮫川大主佐敷村に住む

7.中城按司③   
在所は中城安谷屋村
根所は熱田と云ふ家
按司は中城大神六代の孫也
島尻国頭巡行後安谷屋村に住む
骨は竹山の内高岩の穴に埋葬する

8.長男安谷屋按司③ 
 長男野嶺按司④
 二男知名大主④
 三男安里大親④
 四男本部親方④
 五男豊見城親方④
 六男浦添親方④
 七男我那覇親方④
 八男棚原大屋子④

9.二男豊見城按司③
在所は豊見城村の根所也
・長男豊見城若按司④
二男饒波大神④豊見城饒波村の根 の養子に入る金城と言う家也  
・三男嘉数村の大殿に行く④
・四男豊見城高安村の波平に行く④
・五男は豊見城高嶺村の大屋の家なり
・六男は豊見城真玉橋村の波平に行く
・七男は離島に行く④

10 .三男眞境名③
母は大里眞境名村根屋の子なり。
長男稲福親雲上④ 
在所は南風原金城村根所也。
子は四人なり

11. 四男山川大屋子③
母は南風原津崋山村奴留也
在所は南風原山川村の安谷屋と言う家なり
長男南風原同村本部に行き二男が相続する④

12. 五男兼元大主③
母は南山大里村山川奴留也。
在所は豊見城翁長村潮平と言う家也。
子は五名あり

13. 六男平良大屋子③ 
母は豊見城野波村奴留也
在所は野波村の上里と言ふ家なり
子は七名あり

追加料金なし合宿免許のyi免許

今帰仁城主(童名大舜)② 

従者と今帰仁勢理客に上陸
今帰仁勢理客村の十八歳のノロクモイと通じ翌年、童名大舜を生む。

大舜、二世中古今帰仁按司になる。

母、今帰仁間切勢理客村祝女
一説には運天村のそう屋の女子とも云う

天孫24世太古今帰仁按司   
その御子
25世太古今帰仁按司
中山思金松兼天孫が利勇に殺害され滅びた時、子孫離散し今帰仁城は空城となる。
その御子六男今帰仁王子は今帰仁間切具志堅村に逃げ隠れ、後今帰仁城を再興する。
一世中古今帰仁按司も言ふ。

一世中古今帰仁按司(天孫25世中山思金松兼の六男今帰仁王子

中古今帰仁按司は跡継ぎなく源為朝の御子大舜を跡目にする
      
二世中古今帰仁按司(大舜
源為朝と今帰仁間切勢理客村奴留の子

三世今帰仁按司(舜天王時代)

中古今帰仁按司(舜馬順煕王時代)

前昔今帰仁城主(義本王の弟)
 中古今帰仁城主とも云ふ

中古今帰仁按司
 義本王三男
 英祖王次男湧川王子を養子とする。
 仲昔今帰仁城主今帰仁按司と云ふ

英祖王の次男湧川王子は
今帰仁城主
仲北山とも云ふ。
     

    

中山舜天王(尊敦)

大里按司の妹真鍋樽金との子なり
居所、浦添極楽寺也。
玉骨は東大里村の中食栄盛の獄内に埋葬され奉られる。

今帰仁勢理客に上陸後南方に向かい、
羽地按司、名護按司、恩納按司、山田按司、読谷山按司、
北谷按司、伊祖按司のもとに立ち寄り
東海に向かい進む、
津記武多按司のもとに立ち寄り、東大里間切りに至り、
大里按司と逢う。しばらく滞在する。

大里按司の妹に絶世の美女あり。
童名、真鍋樽金という。
大里渡慶名村で為朝公に初めて会う。
この地を里人は「和解野」と称し、
また「大和為朝の址」と呼び後裔が拝礼の場所になる。

為朝公と真鍋樽金との間に一男が誕生する。
童名 尊敦となずける
後、浦添按司となり、琉球国中山王となり給う。

為朝公故郷に帰ることになり、
真鍋樽金曰く、この子成長ののち、
父の顔を問わずば、何をもって答えると為朝公に問ふ
己れが顔の像を作り与える。

西原間切末吉村の寺院に格護しある俗称「ハキボル」という。
父の顔像も作り与えた。
玉城間切仲村渠村免武登能長枡に飾りある「ハキボリ」なり。

舜天王の御子

舜天王太子舜馬順煕王③

舜馬順煕王の御子

1.舜馬順煕王太子義本王④ 
  辺戸北方林中の墓に葬られる。
  俗称辺戸玉御墓

本王御子

・太子浦添王子⑤
  北方に逃げかくれる
  後に行方不明になる。

・二男中城王子⑤
  中世の世替わりの時、
  中城間切仲順村に母と林の中で
  隠れ住むが、北方に逃げる途中、
  北谷間切浜川村で死去する。
  当今の浜川村北方表に葬られる。
    
  この墓を参詣するのは
   中城間切仲順村花崎の安里 
  今の上の安里の比嘉である。
  
他説では
中城王子はその時幼少で乳母に預け仲順主家で養育したと云ふ。
三男今帰仁城主⑤(俗称今帰仁王子
四男北谷王子⑤ 
長女聞得大君加那志 ⑤

2.舜馬順煕王二男今帰仁王子 
  前昔今帰仁城主となる。
  三代目に男子出来ず。
  義本王の三男を跡目とする
  他説
  前昔今帰仁按司は跡目生まれず、
  英祖王二男湧川按司を婿養子とす
3.舜馬順煕王三男読谷山王子④ 
  
4.舜馬順煕王四男越来王子④
  
5.舜馬順煕王長女真牛金④
  西按司加那志

舜天王二男羽地王子③ 
  羽地間切りの羽地城主となる。
  羽地王子御子
   長男羽地按司④
   二男屋我按司④
   三男名護按司④
   四男国頭按司④
   五男大城按司④
   六男平南按司④
   七男嘉陽按司④
   八男北谷按司④
   九男長嶺按司④

舜天王三男中城世主③ 
 中城間切りの中城城主となる。
 後、中城世主と云ふ。    

 その御子
 長男中城按司④
 二男島添大里按司④
 三男免武登能按司④
 四男今帰仁按司(嗣子なし)④ 

舜天王長女聞得大君加那志③ 俗称ちふじんかなし     

  舜天王大里王子③ 
 大里村大屋に御持
 長男豊見城按司
 二男大城按司
 三男具志頭按司
 四男前川按司
 五男小禄親方
 六男安波茶親方
 
舜天王浦添王子③ 
 浦添沢岻村根屋の当間と云ふ家也 
 長男沢岻大神
 二男儀間掟親雲上
 三男内間大屋子
 四男島尻大屋子
 五男湧川親方

舜天王中城王子③ 

  中城泊村の大屋に御持
  長男安里親雲上
  二男宜野湾親方
  三男末吉親雲上
  四男小禄親雲上
  五男仲里親雲上
舜天王北谷王子③ 
  北谷村の奴留殿内の大家に御持
  長男金満按司
  二男稲福親雲上
  三男伊礼大屋子
  四男浜川親雲上
  五男大嶺親雲上
  六男熱田親雲上
  七男安里親雲上
  八男宜野湾親雲上
舜天王越来王子③ 
  越来村根所に御持
  長男内間親雲上
  二男諸見里親雲上
  三男仲村渠親雲上
  四男山内親雲上
  五男玉城親雲上
  六男呉屋大主
  七男知花主
  八男宇久田主
  九男松元親雲上
舜天王長女大首里大神③ 
 東獄山の護神職を掌る。
 死骨は首里城の前の
 ソノハン御獄内に埋葬される
舜天王次女国頭大神③ 
 国頭辺士名村の獄内に隠れ玉ふ
舜天王三女島尻大神③ 
 島尻の神職を掌る
 死骨は南山城山城公芳獄
 の内に埋葬される。

参考文献:祖先宝鑑
参考文献:古琉球三山由来記

まとめ

 源為朝の琉球王国一族子孫の流れをまとめました。
 ①は初代源為朝、②は為朝の子、③は孫、④はひ孫・・
 
 琉球は天孫25世で崩壊の時
 平家に追われた源氏・源氏方平家一族・家族が来て一緒に琉球に住みつく
 
 鎌倉幕府設立前後、源氏により平家が追われ、
 その家族などが奄美周辺に逃げ住みつく。

 琉球本島にも流れてきました。

 現在の琉球人は先祖研究において天孫琉球人よりも
 源氏・平家琉球人としての頭・心の改革が必要なのかも・・・自分もその一人
 
 第二尚家琉球王朝は1689年に系図座を創設し家譜(系図)を編集しました。}
 個々の名前の由来・家紋なども琉球内だけで照らし合わせず、

 本土の武士家紋と名前の由来など比較検討することが必要
 比較検討もまた楽しいです。新しい発見があったりして・・・
 最後まで読んで頂きありがとうございました。

仲地弘和
家系
氏集首里・那覇
八番31頁 白氏 名乗頭字・信
大宗白楊基 金城親雲上信懐
家紋:武田菱、四つ割菱
勝連濱川按司御子二男勝連「屋慶名主(楊布主)」

前原高校を経て
琉球大学農学部卒業

調査に月日を重ね続けるなか
うるま市郷土地元と琉球の歴史に興味が湧き
資料を集め30年が過ぎる。

その資料を再考察し自分が感じた事
先祖の歴史を基礎に、
琉球の先人達
郷土史家伝説の資料から導き出した
自分独自の琉球歴史観を記しています。

少しでも琉球郷土史に興味を抱いている方々の
参考にしていただけたらと思い書いています。

学問的に歴史研究家
先生方に師事し学んで無いので
多々間違いも多くあるものと思います。
参考程度で読んでもらえたら幸いです。

生涯現役人をフォローする
琉球按司系図
スポンサーリンク
琉球歴史探求