大里大君、源為朝の御子で東大里村の屋敷囲いを始められた方

琉球按司系図

源為朝の御子で舜天王、大舜の
兄弟です。
兄弟舜天王は1166年生まれで、1187年に即位し1237年(72歳)で死去する。
その時代は、舜天王代と同じ時代背景と想像できます。

東大里村の東大里グスクは、
島添大里按司によって増改築された
グスクである。

14世紀に八重瀬町の東風平・富盛南方にあった八重瀬グスクの按司・
汪英紫が、
南城市大里にあった島添大里グスク(=東大里城)を攻略する。
 
良港な馬天港を有し明国と交易
することを計画した。
南山の東半分を支配し
南山は完全に二つの勢力に
分断された。
東大里は南山本家をしのぐ勢いで繁栄した。

大里大君はその東大里村に屋敷囲いを始められた方である。

天孫氏の御子にも大里大君がいます。
居所は東大里西原のろ殿内に
在ります。
御子は八男一女
大君は双子で生まれ
他一人は伊祖大神浦添安波茶の
小湾と言う家に行く

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大里大君

居所、東大里村の当間と言う家
にある。
玉骨は東大里村の慶路盛の獄内にあり
東大里村の屋敷囲いを始めた方
である。

父:鎮西八郎為朝公である。
母:大里村大屋の娘である。
  在所は大里村の当間と
言う家にある。

大里大君の御子

長男玉城按司
 泊大神の婿になり泊村に
 住まわれるが
 後金満按司の三男真壁按司の
 孫の嗣子になる。
 居所は浦添市沢岻村の西の屋と
 言う家にある。

二男高名城大主
 東大里村西原屋と言う所から
 東大里高名村世立て始めたる
 祖先の跡を相続するが
 後裔嗣子無く尚泰久王の孫
 上間掟親雲上入り婿となり
 跡を継ぐ。
 居所は東大里高名村の根所の
 世持と言う家にある。
 大主の長男宜野湾村に住む。
 
 百名大君の二男宜野湾按司の
 後裔を相続する。
 後裔嗣子無く察度王の孫新城親方が
 嗣子になる。
 又その孫に至っては
 尚円王の外子玉那覇里主が
 入り婿となり嗣子になる。

 居所は宜野湾村の桃原と言う家
 後は玉那覇と言う家なるが
 その里主の長男は、西原小那覇村
 大里村南風原屋の
 玉那覇と言う家からくる。
 その御持は玉那覇と言う家にある。

三男末吉親雲上
 西原末吉村奴留殿内の玉城と
 言う家の入り婿になる。
 御子は五男一女である。

四男越来大主
 居所は越来呉屋村の知花と
 言う家にある
 子は三男四女である。

五男大里大主
 小禄村の大里と言う家の
 入り婿となる。
 子は五男四女である。

六男高嶺掟親雲上
 豊見城高嶺村の世立て始められた
 高嶺按司の後裔を相続する。

七男山川大屋子
 居所は南風原山川村の根所にあり。
 子、五男二女
 南風原津嘉山村の根所は仲里と
 言う家である。

松元大屋子
 居所は浦添城間村粟国と言う家
 にある。
 子は二男三女おる。

城間南掟
 浦添宮城村の大屋と言う家の
 入り婿になる。

勢理客大主
 島々巡行し後伊平屋島で隠居する。
 その家は根神名嘉と言う家である。

小湾掟親雲上
 豊見城高嶺むらの大屋の入り婿
 になる。
 子、一男一女出生し
 後浦添西原村に行き隠居する。

高安親雲上
 豊見城高安村長嶺と言う家の婿
 になり、その村に住む。
 子は七男二女いる。

まとめ

大里村の屋敷囲いを始められた
大里大君
東大里城は良好な馬天港を有し
南山が繁栄していくのに必要な城であった。
その基礎をつくるのに貢献した
方である。
豊見城高嶺村の世立て始められた
高嶺按司
               
どの時代の按司か機会があれば調べてみたい。
最後まで読んで頂きありがとうございました。

仲地弘和
家系
氏集首里・那覇
八番31頁 白氏 名乗頭字・信
大宗白楊基 金城親雲上信懐
家紋:武田菱、四つ割菱
勝連濱川按司御子二男勝連「屋慶名主(楊布主)」

前原高校を経て
琉球大学農学部卒業

調査に月日を重ね続けるなか
うるま市郷土地元と琉球の歴史に興味が湧き
資料を集め30年が過ぎる。

その資料を再考察し自分が感じた事
先祖の歴史を基礎に、
琉球の先人達
郷土史家伝説の資料から導き出した
自分独自の琉球歴史観を記しています。

少しでも琉球郷土史に興味を抱いている方々の
参考にしていただけたらと思い書いています。

学問的に歴史研究家
先生方に師事し学んで無いので
多々間違いも多くあるものと思います。
参考程度で読んでもらえたら幸いです。

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