「海東諸国紀」琉球国紀 国王代序
永楽16年(1418年)琉球国中山王二男勝連寓鎮と称す。 予が兄亡くなり予始めて通号すと
濱川勝連按司の弟、二男勝連(屋慶名主)について解説してみました。
1418年 茂知附勝連按司は濱川勝連按司の姫の婿養子になって勝連城に入っていたと考えられます。
茂知附勝連按司は阿麻和利を1443年婿養子に迎えます。
濱川勝連按司の死から25年が経っています。
茂知附勝連按司は政権を25年間もよく維持してきました。
勝連は新生勝連按司の登場が必要だったのか
茂知附勝連按司が阿麻和利(20歳)を1443年婿養子に迎えてから15年後、護佐丸・阿麻和利の乱(1458年)が起こります。
勝連は琉球国、琉球国中山王、琉球国南山王、琉球国北山王と区別し記載されてます。
濱川勝連按司の弟、二男勝連(屋慶名主、屋部主)に関する資料
「海東諸国紀」永楽16年(1418年)琉球国中山王二男勝連寓鎮 予兄亡くなり予始めて通号する。
李朝実録抄 世宗荘憲大王実録
永楽16年(1418年)琉球国王の二男賀通連、人を遣わす
李朝実録抄 瑞宗大王実録
景泰元年1450年貴国人4名、吐噶喇列島の島 臥蛇島に漂泊する。島は琉球・薩摩の間に在り。
半ばは琉球に属し、半ばは薩摩に属す。
故に二名は則ち薩摩の人これを得、二名は則ち琉球国王の弟、兵を領して喜界島を征してこれを見、
買いて国王に献ず。王は闕内に置き、厚く撫恤を加う。
漂流人万年・丁禄等の言ふ所を録し、以て啓す。
1450年12月、我二人及び石乙石、石今、徳万、康甫等六名。
同に一船に乗る。海中に於いて風に逢ひ、吐噶喇列島の臥蛇島に漂到す。
康甫、徳万は皆、病死す。
島中の居民三十余戸、半ばは琉球に属し、半ばは薩摩に属す。
島人二人を率る、水路三日の加沙里(笠利)に往く。
留まること十余日。
時過ぎて琉球国 勝連大親久、事に因りて本島(大島)に到り、万年を見て家に帯び帰る。
留まること三月
間ごろ琉球人完玉之、加沙里(笠利)島に到り、銅銭を用って丁禄を買い帯びて還る。
李朝実録抄 世祖恵荘大王実録
梁成等
1462年正月25日船軍梁成等、済州を発船して風に逢ひ、二月初ニ日、琉球国北面の久米島に漂到す。
梁成等、島に留まること一月。
貢船に載りて国(沖永良部島)に到り、水辺の公館に住す。
館は王都を距つること五里余りなり。
館傍の土城に百余家有り。
皆我が国及び中原人之に居る。
梁成等、一月を過ぎて王城に帰く。
王城は凡そ三重。
外城に倉庫及び厩有り。
中城に待衛軍二百余之に居る。
内城に二三層の閣有り。
上層は珍宝を蔵し、下層は酒食を置く。
王は中層に居る。待女百余人。
中央は狭小にして或いは一二息なり。
南北は広潤にして其の際を見ず。
大概長鼓の形の如し。
銭貨、興用する所の者は銭貨なり。
鋳造の法を知らず。
中原人始めて来り之を教ふ。十文は米一升に准ず。
商買、沿江船泊の処に在り。日本・女国の人、亦且つ来り市す。
交隣、中原(福建)の及び日本国・女国相通ず。然れども数数ならず。
中原の程途は東南風に因り船行七日にして乃ち到る。
日本の程途は西風に順ひ船行十八日にして乃ち到る。
攻戦、国の東に二島有り、一は喜界島と曰ひ、一は奄美大島と曰ふ。
奄美大島は則ち攻討帰順すること今己に十五余年。
喜界島は則ち毎年討を致すも、猶服従せざるがごとし。
肖得誠
肖得誠等8人、1462年正月24日、羅州発船、2月14日琉球国宮古島に漂到す。
4月16日に至り、琉球国(勝連)商船に付走し、4月27日に本国(沖永良部島)に至る。
国王は、宮内南の行廊に接置し、日日召見し厚く食べ物をさしあげる。
7月6日、発還す。
・国王(琉球国)は年33歳なり。
・国王(琉球国)には子4人有。長子は年15ばかり。余は皆幼なり。
・長子出入の時は、軍士十余人之に待従す。
・王子は国王(琉球国国王)と同処せず。別に他処に在り。
・旧宮は居る所の宮城の南に在り。
徳之島の宮城(ミヤグスク)古代王国ハリタヨウ遺跡
その層閣は・城郭の制度は、常居の宮と同じ。時々往来す。
外城内に倉庫及び内厩有り。常に大馬六匹を養う。
江辺に城を築き、中に酒庫を置く。房内に大甕を排列し、酒醪盈溢す。
市は江辺に在り。南蛮・日本国・中原の商船来り、互に市す。
南蛮は国の正南に在り、順風なれば則ち三月にして乃ち至るべし。
日本国は国(沖永良部島)の東南に在り順風なれば則ち五日にして至るべし。
中原(福建省)は国(沖永良部島)の西に在り。順風なれば則ち二十日にして乃ち至るべしと云ふ。
万年・丁禄等・梁成等・肖得誠が訪れた琉球国は何処だったのか
琉球国の東に二島有り、一は喜界島と曰ひ、一は奄美大島と曰ふ。
琉球国 勝連大屋久、事に因りて本島(大島)に到り、万年を見て家に帯び帰る。
旧宮は居る所の宮城の南に在り(徳之島の宮城)
1259年 「鎮西八郎為朝」の住んだ沖永良部島に、琉球王を隠居した義本王が家臣と沖永良部島の大島郡和泊町畦布字名波武田の湾門山に城を造りました。
大和城と命名し、沖永良部島、与論島、徳之島まで支配するようになり、大和城は按司府(畦布)として君臨します。
1266年 初めて琉球に貢物を納め、琉球王国に帰属することになります。
奄美の島々を琉球王国に帰属させ、義本王は沖永良部島で天寿を全うします。
義本王が造った湾門山の大和城、義本王の子孫の琉球国(勝連)で按司府(畦布)を開き中原(福建)及び日本国・女国と貿易を着実に進めていきました。
万年・丁禄等・梁成等・肖得誠が訪れた御物城の場所は、湾門山の大和城の按司府(畦布)でした。
まとめ
万年・丁禄等・梁成等・肖得誠が訪れた琉球国の御物城は大和城の按司府(畦布)でした。
濱川勝連按司の死から弟の二男勝連は、城に戻ることが出来ず。
一族の出発地、湾門山の大和城の按司府(畦布)で再出発をしました。
長女兄弟の婿の尚忠王を助けながら尚巴志王系の琉球国中山王といい関係を築いていきました。
西原町史 第二巻 資料編 p-200 勝連按司の弟の湾の按司