太古今帰仁城主(=北山城主)前昔今帰仁城主、仲昔今帰仁城主、後昔今帰仁城主、今今帰仁城主の歴史

太古今帰仁城琉球按司系図

太古今帰仁城址(=北山城)は、国頭郡今帰仁間切親泊村(=今帰仁村字今泊)の丘の上にあります。

今帰仁城(=北山城)天孫時代からの按司の居城

口碑、伝説、野史で言われている
太古今帰仁(北山)城主は、太古天帝子の次男です。

野史には、太古今帰仁按司は琉球国按司の始まりである。
御名は魯加禰(たるがに)と云われる。

父君の指示により今帰仁間切りに城を構える。

俗称太古今帰仁城主、あるいは太古今帰仁大按司と云ふ。
後の世の俗称は北山大按司とも云ふ。

北山大按司の御骨玉は今帰仁間切り境内の炬港(たいみなと)と云ふ浜の上に葬られる
他説では今帰仁城内の天続獄(てんつぎだき)に葬られる

御神主は今帰仁間切親泊村奴留殿内にあり
後、今帰仁間切湧川村新里屋に移し祀る。

太古今帰仁城

北山城(今帰仁城)の城主名が史書に記載されたのは中山玉城時代の怕尼芝が初めて

山北王とは今帰仁按司と同じである。

羽地名護国頭金武及び伊江島伊平屋等従山北為

今帰仁城主は五種に区別される。

今帰仁城主は、太古今帰仁城主、前昔今帰仁城主、仲昔今帰仁城主、後昔今帰仁城主、今今帰仁城主の五種に分かれる。

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太古今帰仁城主  

最初の城主は太古明東天帝子の次男で今帰仁按司と称する
今帰仁大按司、北山大按司とも云ふ
 
玄孫の時代に至り男子が無く
太古明東天孫氏五世百佳尼(ひゃくがに)王天孫の三男が跡目に入る。
  
また嗣子無く太古明東二日孜毎(にしみ)王天孫の御子を養子とする。
これを今帰仁按司と称する。

この按司の嫡子は、早くに薨去なされ羽地按司の賢なるものを跡目にした。
 
この今帰仁按司は二代目に男子生まれず、
太古明東耶馬度加禰王(がにおう)天孫氏の八男を跡継ぎとする。

この城主も二代目も男子生まれず
辺戸他魯加尼王天孫の八男を跡継ぎとする。
四代までは相継ぐが、その後三、四代は今帰仁城は空城となる。

安谷屋思万故加禰王の天孫の次男が今帰仁城を再興し今帰仁城主となる。

この城主も跡目の男子うまれず
太古安谷屋思徳樽金王天孫子の次男を跡目とする
この今帰仁城主は五、六代の子孫の時
  

中山思金松兼王天孫氏の滅亡と同時に滅び、今帰仁城は空域となる
太古安谷屋思徳樽金王天孫子の次男が今帰仁城になり、
五代目の今帰仁按司には御子三人うまれる。
  
御子の長男は父の跡を継ぎ今帰仁按司となり、
次男は羽地世主、

三男は大里世主大里按司となる。
この大里按司は一男一女を生む。
  
長男は大里按司、長女は真鍋樽金と称する。
源為朝の妻となり一子を生む。
  

他説
太古安谷屋思徳樽金王天孫子の次男より今帰仁城に行き、今帰仁城主となる。
  
今帰仁按司は五、六代の頃の子孫に至り中山思金松兼王天孫氏が殺され滅ぶと
同時期に今帰仁城主も滅亡し今帰仁城も空城になる。

源為朝と今帰仁間切勢理客村のノロコモイとの御子、大舜が今帰仁城に入り、
今帰仁城を再興して今帰仁城主となる。  

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前昔今帰仁城主

前昔今帰仁城主は源為朝の御子、中山舜天王の次男孫より入り、
今帰仁城を再興し今帰仁城主と言ふ。
この城主は中山義本王の弟、今帰仁王子とも称す。
しかし御子が出来ず、兄の義本王の三男、今帰仁王子を養子とする。

義本王の三男よりなる今帰仁城主は、二、三代の頃、嗣子出来ず
  
姻戚なる中山英祖王の次男、湧川王子を養子とする
後二、三代の頃に、本部大主に敗れ、子孫各所に離散する。

仲昔今帰仁城主(仲北とも称する)

義本王の弟の前昔今帰仁城主は嗣子生まれず、中山王英祖王の御子湧川王子が養子入りをする
仲昔今帰仁王子の湧川王子の父英祖王、祖父は天孫氏後裔 恵祖世主である。
 
湧川王子と称する御子は二人いる。
長男北山世主今帰仁按司
二男湧川按司

仲昔今帰仁城主三代目の北山世主今帰仁按司は本部大主の謀反で城は陥落、
子孫離散するが、旧城を取り返し城主になる。

しかし同族の(英祖王の次男湧川王子御子湧川按司その御子長男丘春今帰仁按司、兄弟湧川按司その子)北山怕尼芝(はにじ)に滅ぼされる。

他説
二代目北山世主湧川按司は本部大主に滅ぼされ焼け死ぬ。
妻子は逃げて、北谷間切砂辺村の殿内屋の下女になる。
子は丘春と言い同じく殿内屋の下男となる。
馬の草刈りをして生活をする
 
旧臣が大宜味間切りに集まり居るのを聞きし、そこに行き
集まる軍兵二千三百人を引き連れ
羽地間切寒汀那の浜に進み、

そこで本部大主と戦い本部大主を殺し旧城を取り返し城主となる。
長男丘春今帰仁按司誕生なる。
  
五、六代目に一族の北山怕尼芝(はにじ)の三千七百人の兵で夜中攻められ仲昔今帰仁城主は滅亡する。
親兄弟妻子、本部間切具志堅村に逃げ隠れるが、親は具志堅村で亡くなり、この地で葬られる。
その後兄弟離散
  
兄弟の一人は中頭地方美里間切伊波村に逃げ、村付近の洞窟内に隠れ住んでいた。
しばらく隠れ後洞窟内から出て村の女を嫁にし男三人を生む。
その御子
長男美里間切伊波村の城主、伊覇按司になる。
兄弟一人目恩納間切山田村の城主、山田按司となる。
兄弟二人目読谷山間切大湾村の城主、大湾按司となる。 

その兄弟の一人は妻子を連れ嫡子の妻の父親の名護間切の城主、名護按司の名護間切城村に逃げる。
その妻は幼少の子一人と父母の所の久志間切久志村の城主、久志按司のもとに逃げた。
  
自分は、二人の男子を養育し名護間切城村で隠れ居るが、この村で亡くなる。
二人の子の嫡子は城村で死亡する。
  

後昔今帰仁城主

羽地按司、名護按司、国頭按司の協力により
北山攀安知王(はんあんちおう)の時、尚思詔王が太子尚巴志に命じて北山攀安知王を崩壊させる。

   
北山滅亡の後、1422年尚巴志即位の年に二男尚忠を北山城監守に任ずる。
後昔今帰仁城主とも云ふ。
 

その後十九年北山城にお役目を果たすが、父王尚巴志王が1439年に亡くなり、尚忠王が誕生する
尚忠王は北山城監守を弟、具志頭王子を今帰仁城主に封ぜられる。

中山尚徳王(1469年)の滅亡とともに北山城(今帰仁城)も滅び、子孫は離散する。

今今帰仁城主 

今今帰仁城主は、中山尚円王の御子
尚真王三男尚韶威今帰仁王子朝典が北山監守に任ぜられる

その子孫七代まで今帰仁城主であるが 
中山尚敬王の時、国司、法司官、蔡温の教えにより今帰仁城より中山政府首里に移動する。

首里赤平村の尚氏具志川御殿の先祖である。

それ故今に至るまで阿応理屋恵御殿はかならず今帰仁王子尚韶威の子孫が勤める。

参考文献
古琉球三山由来記集
琉球祖先宝鑑

まとめ

太古今帰仁城主、義本王の弟の今帰仁城主、義本王の御子三男今帰仁城主
尚円王の御子尚真王三男の今帰仁王子、その子孫の今帰仁城主が続きます。

世代で多くの今帰仁城主がいます。
一人一人の今帰仁城主を判別するのは難しいです。

しかし今帰仁を理解するのには、通らなければならない道です。
知識の一片に付け加えていただけたら有難いです。
読んで頂きありがとうございました。

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仲地弘和
家系
氏集首里・那覇
八番31頁 白氏 名乗頭字・信
大宗白楊基 金城親雲上信懐
家紋:武田菱、四つ割菱
勝連濱川按司御子二男勝連「屋慶名主(楊布主)」

前原高校を経て
琉球大学農学部卒業

調査に月日を重ね続けるなか
うるま市郷土地元と琉球の歴史に興味が湧き
資料を集め30年が過ぎる。

その資料を再考察し自分が感じた事
先祖の歴史を基礎に、
琉球の先人達
郷土史家伝説の資料から導き出した
自分独自の琉球歴史観を記しています。

少しでも琉球郷土史に興味を抱いている方々の
参考にしていただけたらと思い書いています。

学問的に歴史研究家
先生方に師事し学んで無いので
多々間違いも多くあるものと思います。
参考程度で読んでもらえたら幸いです。

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