喜屋武久子は大里按司五姓御師賓
の教育を授けられて成長する。
大里林英仙芝公先生の父は仲昔今帰仁城主である。
大里林英仙芝公先生に隨いて
唐國に渡り学ぶ
武勇、耕農具の細工、
琴や三絃歌・笛・笙(しょう)等の音楽を学び
音律を習い琉球で教え広めた。
外間子は大里按司五姓國師の教育
を授けられて成長する。
大里林昌公莞爾先生に隨い唐國で学ぶ
武勇、漁猟用具の細工、塩造法、炭の燃法、
藍(あい)作りの技法を学び
琉球國に広める。
父攀安知王について
大年丙申(1416年)
中山王尚思紹王は太子佐敷小按司尚巴志命じ
五万三千百人の義兵を起こし
林鳳公、林龍公先生を軍師として
浦添按司、越来按司、読谷山按司、名護按司
国頭按司、羽地按司、大城子、昔今帰仁子
に命じ喜屋武久子、外間子の父
北山攀安知王を征伐する。
北山攀安知王の先祖
1.大里天孫惠祖世主
2.英祖王
3.次男湧川王子
4.北山世主湧川按司
5.湧川按司
6.北山怕尼芝王
7.北山珉四世王
8.北山攀安知王五世
大里林英仙芝公先生の先祖
1.大里天孫惠祖世主
2.英祖王
3.次男湧川王子
4.北山世主湧川按司
5.北山世主今帰仁按司
6.仲昔今帰仁城主
7.六男大里按司(=大里林英仙芝公先生)
二人は4の北山世主湧川按司の御子兄弟の子孫であり
同じ一族である。
攀安知王の御子
三人は御妃之御子である。
太子仲宗根王子
次男志慶真王子
長女真亜佳度按司加那志
他三人は妾の御子
三男外間子
四男喜屋武久子
五男今帰仁子(虎壽金)
御子、妃、妾の母の結末
北山攀安知王妃嬪、
御太子仲宗根王子は共に自害する。
次男志慶真王子、
長女真亜佳度按司加那志は叔父母等と共に
南山民家に逃走して隠れる。
三男外間子、四男喜屋武久子等は
七歳、四歳の幼き御子の為、
妾の母も自害、逃走することも出来ず。
捕らえられ佐敷間切りに留め置かれて、
今帰仁の逃げ隠れる者の行方を強く探問される。
後、大里按司及び大里五姓御師賓等の
佐敷小按司尚巴志への哀願で許され
大里間切り津波古村に留め置かれて
日々厚く撫養し
五姓御師賓等による教育を受ける。
妾母が身ごもりながら捕らえられ、
今帰仁から佐敷間切りに留め置かれて
生んだ子は童名虎壽金と名付けられた。
・北山攀安知王の五男虎壽金
時を経て
宣徳五年(1430年)
尚巴志王、尚忠王の二王の
美氣により王の妹、
部場天祝々奴留と夫婦となる。
虎壽金に御位を賜え今帰仁子と称し聟にした。
・今帰仁子(虎壽金)、部場天祝々奴留との御子
池原按司を生む。
按司の御子
池原按司、新里親雲上を生む。
後裔、喜舎場里之子
今新里村奴留殿内の新池原の元祖と言う。
・今帰仁子の兄、妾母
喜屋武久子、外間子も御位名を賜る。
妾母も今帰仁大阿護母志良礼の名を賜る。
兄の喜屋武久子、外間子
始めて大里間切津波古村に屋敷を相立てる。
喜屋武久子嫡家は津波古村伊礼津波家内にある。
支流子孫は大里間切
大城村外間及び
板良敷村具志堅
真和志間切古波蔵村上の屋玉城、新屋敷
名護間切宇茂佐村津波古
國頭間切宜名真村津波古
大里間切與那原村大城
西原間切り小那覇村下ノ大城
津花波村呉屋などである。
喜屋武久子
姓:應
諱、唐名:興昌
名乗り:為寶
童名:思徳壽金
大里按司五姓御師賓の教育を授けられて成長する。
大里林英仙芝公先生に隨いて唐國に渡り学ぶ
喜屋武久子の業績
武勇、耕農具の細工、
琴や三絃歌・笛・笙(しょう)等の音楽を学び
音律を習い琉球で教え広めた。
中国で琴や三絃・笛などの音楽を習得して帰り、
『チャンク チンク』という囃子(はやし)の元になった。
囃子(はやし)は、四拍子(笛、大鼓、小鼓、太鼓)でもって、
謡や能をはやしたてること。
笙(しょう)とは、雅楽などで使う管弦器の一つである。
能も演劇の一つです。
能は舞踊と音楽が中心です。
「謡(うたい)」という声楽と
「囃子(はやし)」という楽器演奏に乗せて、
舞踏的な動きで物語を進めてゆきます。
琉球での能の先駆けの基礎を築いた方である。
津波古村伊礼津波元祖応氏系図
応興昌為宝(寶)喜屋武久子
童名:思徳壽金
御子
長男応則茂永春
童名松金、早死
今帰仁仁屋
次男応則栄時芳
童名真山戸
大見武大屋子安次富継ぐ
三男応則裔国宜
童名真三郎 早死
四男応則盛成柱
童名真蒲戸、早死
五男応則昌
童名真牛
六男応則泰長芸
童名樽金
外間の跡を継ぐ
外戚原内間村宇根である。
長女真加戸金(夭亡)
次女思亀金(夭亡)
三女乙樽金
喜屋武久子の後裔は大里林喜公祉止の子孫の養子入りする。
参考文献
古琉球三山由来記集
外間子
姓:應
諱:興旺
名乗り:為藩
童名:思鶴壽金
大里按司五姓國師の教育を授けられて成長する。
大里林昌公莞爾先生に隨い唐國で学ぶ
外間子の業績
武勇、漁猟用具の細工、塩造法、炭の燃法、
藍(あい、イェー)作りの技法を琉球國に広める。
外間子嫡家は佐敷間切津波古村外間家内にある。
喜屋武久子の後代孫より外間子の子孫に養子入りする。
参考サイト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%99
笙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%83%E5%AD%90
囃子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
雅楽とは
「笙」「篳篥」「龍笛」について
http://www.togihideki.net/et_cetera/gagaku/index.shtml
まとめ
喜屋武久子
仲昔今帰仁城主の五男大里按司、
別称大里林英仙芝公先生に隨いて
唐國に渡り
武勇、耕農具の細工、
琴や三絃歌・笛・笙(しょう)等の音楽を学び
音律を習い学ぶ
囃子(はやし)、笙(しょう)など
琉球音楽に貢献する。
外間子も
大里按司五姓國師の教育
を授けられて成長する。
大里林昌公莞爾先生に隨い唐國で学ぶ
外間子の業績
武勇、漁猟用具の細工、塩造法、炭の燃法、
藍(あい)作りの技法を学び
琉球國に広める。
最後まで読んで頂きありがとうございました。