椿説弓張月 源為朝の大和による琉球征服と天孫琉球の財宝・略奪

椿説弓張月の源氏琉球按司系図

琉球の血を排除した舜天丸(すてまる)」が王位に就き大和による琉球征服が成し遂げられました。
琉球からすると大和による琉球征服は達成されました。

英雄の源為朝が琉球の血を排除した戦いは達成され
天孫琉球を攻めた最大の目的、戦果の産物を手に入れました。

・源為朝はどの様に琉球征服を達成したのか
・琉球天孫の民族は何処に消えたのか
・海外貿易で稼いだ天孫琉球の歴史はどこに捨て財宝をどこに奪い去ったのか

スポンサーリンク

どの様にして琉球征服は達成できたのか

現在の琉球の状況から天孫の時代を想像しますと、天孫琉球人、家族、文化、海外貿易資料・・・その他色々
「琉球の血を全て排除」するものが天孫琉球全てを忽然と消した状況が想像できます。

そして天孫琉球全ての者が消え去った空間を埋めるのに、新しい大和源氏民族、家族、文化などを導入し
新しい社会基盤を造らないと現在の沖縄は存在しない。

平家と源氏の戦いで、敗れた多くの源氏の武士、源氏方平家、それらの家族が新天地を求めて天孫琉球を
攻め滅ぼし、新しい国、源氏琉球を確立した。

天孫琉球人、家族、文化、海外貿易資料などを何らかの方法で全て消し去り、厳しい言論統制の下で跡形もなく
天孫琉球は消え現在の沖縄につなぐ。

天孫琉球人として、天孫琉球の歴史を学ぶ資料も無いし、
現在の琉球人としての存在にも疑問を感じる事無く、
古代天孫の琉球人だと思って生きている琉球人です


追加料金なし合宿免許のyi免許

琉球天孫の民族、文字、言葉は何処に消えたのか

平家と源氏の戦いで、敗れた多くの源氏の武士、源氏方平家、それらの家族が行き場所を探しさまよい、
新天地を求め天孫琉球を攻め滅ぼし、新しい国、源氏平家、琉球を確立した。

椿説弓張月の中の琉球の血を排除する。

大和による琉球征服
天孫琉球人、家族、文化海外貿易資料も全て再度、天孫琉球人も抹殺し消し去ったとしか思えません。
源氏は平家に敗れ資産、財産も奪われ平家に対抗するのに財源が必要でした

源為朝の最大の目的は、天孫琉球の長い年月、蓄積した財産、財宝を奪い取り(1165年)その痕跡を残さず、
消し去り、伊豆大島(1170年)に戻ることでした

琉球天孫の一部の民族は逃げ、生き同化し、そして言葉は消え、すべての文物、痕跡は、大和による琉球征服のため消え去ったとしか思えない。

海外貿易で稼いだ琉球天孫の財宝と歴史はどこに誰が奪い去ったのか

伊豆大島(1170年)に帰った源為朝は、嘉応2年(1170年)、工藤茂光は上洛して為朝を訴え、討伐の院宣が下った。
1170年年4月、茂光は伊東氏・北条氏・宇佐美氏ら500余騎、20艘で攻めよせた。
南無阿弥陀仏を唱えると柱を背に腹を切って自害した。享年32。

追討軍は為朝を恐れてなかなか上陸しなかったが、加藤景廉が既に自害していると見極め薙刀をもって為朝の首をはねた。

源為朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

源為朝 - Wikipedia

自害したはずの源為朝、一説には、没年は治承元年(1177年)ともいわれる(『尊卑分脈』)

伊豆大島(1170年)に帰った源為朝

参考サイト:椿説弓張月

椿説弓張月、読んだことある?
岩波文庫『椿説弓張月』を全編あらすじ調にしてみたやつです。みんな大好き為朝伝説

20.為朝、密書を受ける
21.為朝、凧を放つ
22.為朝、生かされる
23.為朝、伊豆の島々を去る

https://kirinwiki.com/bkn/yumihari/story0022.html
  1. 為朝、伊豆の島々を去る  源為朝の甥にあたる源頼朝が世に現れて、平家は壇ノ浦で滅亡しました。  八郎島(八丈島)の太郎丸と次郎丸は、為朝の嫡子として頼朝に面会し、伊豆大島と八郎島(八丈島)の支配をそれぞれに公式に任されました。  為朝を赦免するとの詔勅が朝廷からくだり「八郎大明神」と記した勅額が島に贈られた。  為朝の名前は回復されました。p5/6
    源為朝の子、源頼朝から閉伊、氣仙を賜った際に閉伊姓を称す。琉球天孫の財宝諸々は、源頼朝の源氏再興に使われたと推測しています
    あくまで個人の見解です。証拠は今のところ発見できておりません。

天孫氏二十五世思金松兼王天孫氏の子

長女 聞得大君加那志 
 御死骨は浦添間切牧港村境内湊の上、岩下に葬られる。
 御神主持つもの所伝わらず。

九男 大里王子
 島尻大里間切大里村に逃げ、のち島尻大里村の城主となる。
 御死骨は兼城間切照屋村の東南方、「サンシイ」御墓に葬られる。
 この墓は公姑留(くくる)の墓とも称す。
 御神主は現今の高嶺間切大里村羽地根屋宅に御持なり。

 
七男 国頭王子
 中山落城の時、伊平屋島に逃げ、伊平屋島の内、伊是名島の城主となる。
 伊瀬名城主と称するのはこの城主である。 

五男 中城王子
 中城間切奥間村に逃げ、名を隠し、敵の情勢をうかがいし、兄の伊祖城主に呼ばれ
 浦添間切謝名村に移居する。
 謝名村奥間大親、察度王の元祖なり。 

三男 勝連王子
 慶良間島座間味間切座間味村に逃げ世を終わる。
 御死骨は座間味村の浜の上に葬られる
 御神主は座間味村の奴留殿内に御持なり。
 一説には、座間味村の大家宅に祀られる。
 
長男 浦添王子
 豊見城間切瀬長島城主瀬長按司の所に逃げ、後自害する。
 御骨玉は瀬長島の浜の上、岩の下に隠し葬られる。
 御神主は瀬長村美佐阿奴留宅に御持つなり。

次男 豊見城王子
 読谷山間切り大湾村の城主のもとに逃げ、また、勝連間切比嘉村に渡りこの村にお
 いて世を終わる。
  御骨玉は比嘉むら境内に葬られる。
 御神主は勝連間切比嘉村の新屋の御持なり。

四男 西原王子
 北谷間切同村、北谷城主のもとに逃げ、敵の消息をうかがい尊敦が利勇を誅することになり
 浦添間切伊祖村の城主伊祖按司の婿となり、伊祖城主となる
 御死骨は伊祖村の東方高御墓に葬られる。
 この御墓は、タチノ下御墓と云ふ。
 御神主は伊祖村の西原という宅に御持なり。 
         

六男 今帰仁王子
 今帰仁間切親泊村奴留殿内に逃げ、現今の本部間切具志堅村に隠れ、敵の消息をうかがい
 世が静まり今帰仁城を再興して今帰仁城主となる。 

八男 大宜味王子
 国頭間切辺戸に逃げる、小船で与論、永良部の離島を経て徳之島に滞留する。

 大島の加計呂麻島に渡りこの島で世を終わる。

十男 玉城王子
 知念間切知名村に逃げ、小舟で知念間切久高島に渡る。
 間もなくして従者と小船で勝連間切平敷屋村の西方、岩下に葬られる。
 御神主は平敷屋村の根所に祀るなり

次女 祝女 
 祝女(のろ)加那志と称しる。
 御骨玉は浦添間切勢理客村境内西方に葬られる。
 御神主は浦添間切伊祖村西原という宅に祀る。

天孫氏は二十五代の間に初めは今帰仁に住み、俗称今帰仁天孫氏、次に国頭辺戸に遷居し俗称辺戸天孫という。
次に中頭の越来公房に遷居す。その後、中城、安谷屋に遷居。安谷屋天孫と称す。

次に島尻大里に遷居せらる。大里天孫と称する。
次に浦添間切にい移居する。これを浦添天孫氏と称する。
次に首里に遷居、この地に安住し、国政を掌る

参考文献:古琉球三山由来記集
著者 東江長太郎氏

まとめ

古琉球三山由来記集の著者 東江長太郎氏の未来への希望
古琉球三山由来記集の著者 東江長太郎氏が野史、口碑、伝承を調査しました。

明治41年(1908年)~明治44年(1911年)頃までの3,4年間に北山城を中心として国頭地方の地歴を踏査
大正4(1915年),5(1916年)頃に中頭地方や島尻地方へ出張して調査

琉球の歴史は古い所、すなわち、天孫氏時代に関しては確かな文献が全然ないといってもいい過ぎではない。
琉球の歴史は、舜天王から以前は闇です。

何かの方法でこの闇を照らすことができるかもしれない。
諸外国との交通もあったのですから、他国の書籍に記載されているかもしれません。
この意味で琉球と関係した他国の書籍を絶えず注意して調べて見る必要がある

琉球の太古を研究する史書がないからといって悲観する必要もありません。

琉球の研究が行きずまっているというわけでなく、言語や衣食住、精神生活や風俗、習慣、その他の研究をはじめ、口碑、伝説の比較研究等の事柄が多分に取り残されているはずです。

琉球における伝説、口碑にしても未だ記録に載らないのが沢山あります。
この伝説、口碑によって神代における私たちの祖先の遺した遺物、遺跡を探ったら、
琉球の神代の事跡も明るくなるかもしれません。

 

仲地弘和
家系
氏集首里・那覇
八番31頁 白氏 名乗頭字・信
大宗白楊基 金城親雲上信懐
家紋:武田菱、四つ割菱
勝連濱川按司御子二男勝連「屋慶名主(楊布主)」

前原高校を経て
琉球大学農学部卒業

調査に月日を重ね続けるなか
うるま市郷土地元と琉球の歴史に興味が湧き
資料を集め30年が過ぎる。

その資料を再考察し自分が感じた事
先祖の歴史を基礎に、
琉球の先人達
郷土史家伝説の資料から導き出した
自分独自の琉球歴史観を記しています。

少しでも琉球郷土史に興味を抱いている方々の
参考にしていただけたらと思い書いています。

学問的に歴史研究家
先生方に師事し学んで無いので
多々間違いも多くあるものと思います。
参考程度で読んでもらえたら幸いです。

生涯現役人をフォローする
琉球按司系図
スポンサーリンク
琉球歴史探求