源頼朝 配流人 鎌倉幕府設立北条家、伊豆豪族等軍資金は何処から

為朝が運んだ宝運び屋琉球按司系図

源為朝、天孫琉球国財宝はどこへ運んだ・・・今から行先・・・
保元の乱に父に従い戦うが、負け捕らえられ源為朝は伊豆の大島に流刑(1165年)

八歳年下の甥の源頼朝も1160年から伊豆に配流されていた

参考資料:工藤茂光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

工藤茂光 - Wikipedia

伊豆大島を所領としており、保元の乱(1156年)で大島に流罪となった源為朝の監視役
為朝が流人の身でありながら周辺諸豪族を切り従えて自立の動きを見せた。
嘉応2年(1170年)にこれを追討し自害に追い込んでいる。
1170年源為朝は琉球から戻ると、記載されている。

為朝は何処へも行かず。伊豆大島に居て狼藉を働き攻められ自害においこまれる。
食い違いがある。

1170年4月、工藤茂光は伊東氏・北条氏・宇佐美氏ら500余騎、20艘で攻めよせた。
源為朝が琉球から運んだ宝の山を馬500、船集団20艘で何処かに運んだに違いない

打ち合わせ通り

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古琉球三山由来記集に新しい発見

為朝は何らかの理由により伊豆大島を発し、行く行く幾多の島々を討ち平らげて琉球に向かって行きました

為朝公一行は1165年伊豆大島を琉球に向け出帆した。

しかるに、航海中つむじ風がにわかに起こり、船が沈没を何度かしそうになるが
為朝公は船人を鼓舞して「運は天にあり、何ぞおそるるに足りんや」と励まし
やっと一つの港に漂着しました。

それを運天港と名ずけました。

為朝公一行は、上陸してから琉球本島内を跋渉されました。
到るところ、その威風に恐れ、草の風になびくが如く為朝公に服従するようになる。

島尻大里間切り大里村の城主、大里按司の妹をめとり翌年、尊敦(1166年)が生まれる

源為朝の後裔の野史の記事

1.数年を経て、為朝公は帰国の思いが勃々とおこりくるのを抑えることが出来ず
 妻子を残し浦添間切り牧港を出帆し
 再び伊豆大島に上陸し暴威を振るうが、伊豆の工藤茂光に攻め破られて(1170年)
 自殺(自害)しました。

 その時の歳がちょうど三十二歳であったということです。
 伊豆の工藤茂光に攻め破られて(1170年)自殺(自害)した。
 琉球から源為朝、自ら戻っていった。莫大な財宝を持ち帰ってきた・・何故危険な場所に

2.八丈島の西方に小島という属島があるが
 琉球から還りこの付近の諸島を根拠として種々計画していたが、
平家に攻め破られてこの小島の壺谿という所において
万策つきて自刎したという口碑もあるという。
 ここで「琉球から還り」為朝が琉球から戻ってきたことを証明しています。

3.為朝公は伊豆の大島に流されて附近の諸島を打ち平らげている時に暴風のため
奄美大島の西古見の港に漂着した。
為朝公は臣下を引き連れ西古見近くの加計呂麻島に行き実久という人の所に
しばらく滞在する

 実久には絶世の美女がいて為朝公はこの美女と通じた。
 美女は妊娠し翌年一男を生み、三次郎と名ずけた。
 為朝が琉球に居る時の生んだ子供たちです。

4.為朝公は加計呂麻島にも落ち着かず、琉球に向かって船を出したという。
喜界島にも渡り、島の女と一男を生んだという伝えもあります。
琉球に居る時の喜界島での子、その一男は誰なのか、新しい情報です。

参考文献:古琉球三山由来記集

 

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源為朝は、何故伊豆大島に戻って来たのか

兄義朝の家臣・重貞から、兄の義朝の真意を聞いたからだ。
義朝が保元の乱後、父や弟達を後白河天皇の厳命に従い、
自分の手によって処刑したことを強く悔やんでいること

弟・為朝が生きていてくれて、本当に良かったと思っていること。
為朝には、流刑にされた後も決して自暴自棄にはならず、
将来の自分自身のために「大暴れして反乱を起こしたりしないように」行いを慎んでいて欲しい

実権を掌握した暁には、為朝の罪を許して再び呼び戻すと
密約を、兄の義朝と為朝は源重貞を通じて契を取り交わしていた。

為朝が大島を発した

伊豆の八歳下の甥の配流人源頼朝とも伊豆を抜け出す将来を色々話を・・・・
財宝・大金を獲得する為、琉球征服を計画し実行に移した・・・

工藤茂光、伊東氏・北条氏・宇佐美氏等の同意の上
天孫琉球を征服し莫大な財宝を手に入れ

莫大な財宝を積み込む為の船を何隻も作り、
仲間・自分の子孫が琉球で落ち着くのに三年を要した

準備が整い凄い船集団と伊豆大島に向け出発した。
三年の間、伊豆大島の豪族、頼朝とも連絡を取り合っていた。

源為朝の子供

大島代官藤井忠重の娘・簓江と結婚して二男一女を生む
岩手県宮古市の本拠の閉伊氏は源為朝の遺児・閉伊為頼(為家・頼基・行光とも)の末裔と称した

源頼朝から閉伊、気仙を給わった際に閉伊姓を称した、と主張している。

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伊豆の豪族 北条家

伊豆の豪族等が莫大な財宝で鎌倉幕府将軍(141年)鎌倉幕府の執権(130年)
合計271年の日本の基盤を整備した

参考資料:鎌倉将軍一覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B0%86%E8%BB%8D%E4%B8%80%E8%A6%A7

鎌倉幕府の執権一覧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%AE%E5%9F%B7%E6%A8%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7

まとめ

北条一族が日本歴史に貢献できたのは源氏琉球の始祖、源為朝のおかげか、
源為朝が琉球天孫から奪った贈り物の使い道・・・・

源頼朝の庶子大友能直が叔父の源為朝の源氏琉球の歴史で
ウエフツミで天孫琉球の歴史を何故記録に残したのか・・・・

少しわかった気がします・・・源為朝、我等源氏琉球王国の始祖

琉球王国の象徴、首里城の数回の火災は古代天孫の黄泉の国からのメッセージなのか。
天孫琉球国の供養も・・・古代天孫が積み上げてきたニライカナイ琉球国・・滅亡

源為朝侵入(1165年)から令和2年(2020年)855年間 我々源氏琉球人、ニライカナイの歴史も知らず
その地で生き征服さと知らず。
歴史は繰り返す・子孫への恐怖・・・・平和で皆が安心して暮らせる琉球王国・・・・天孫時代の民よ遺恨を抱かず安らかに・・
最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

仲地弘和
家系
氏集首里・那覇
八番31頁 白氏 名乗頭字・信
大宗白楊基 金城親雲上信懐
家紋:武田菱、四つ割菱
勝連濱川按司御子二男勝連「屋慶名主(楊布主)」

前原高校を経て
琉球大学農学部卒業

調査に月日を重ね続けるなか
うるま市郷土地元と琉球の歴史に興味が湧き
資料を集め30年が過ぎる。

その資料を再考察し自分が感じた事
先祖の歴史を基礎に、
琉球の先人達
郷土史家伝説の資料から導き出した
自分独自の琉球歴史観を記しています。

少しでも琉球郷土史に興味を抱いている方々の
参考にしていただけたらと思い書いています。

学問的に歴史研究家
先生方に師事し学んで無いので
多々間違いも多くあるものと思います。
参考程度で読んでもらえたら幸いです。

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