大米須親方尚徳王三司官第二尚家尚円王の実兄です どんな方?

伊是名諸見村神安佐慶琉球按司系図

大米須親方に三人の兄弟がいました。
二男が上間親方(後永山と言う家に在り)
三男尚円王
四男尚宣威である

大米須親方の父、王考尚穆
大米須親方の母、瑞雲世
父祖、父母、母は伊平屋島諸見村安佐慶(神アシャゲ)の女子である。

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大米須親方の家族

大米須親方息子の米須里主と一緒に本部渡久地に来ました。

米須里主は妻を娶り御子米須子が生まれました。

米須子の長男が顧氏比嘉筑登之親雲上助輝である。

米須里主は辺士名ヌルと翁氏国頭親方盛順も授かりました

米須子とは異母兄弟になります。

辺士名ヌルの墓は辺士名に在り

米須里主は喜界島大屋子を勤める。

大米須親方、琉球本島に移る

尚徳王の暗殺で弟の第二尚円王統が始まりました

大米須親方尚徳王の三司官であり。

尚徳王崩御の後中山政府は王の系統を立てるのに反対する。
尚徳王の遺子を王位に即せんと力を注いだが、
臣したがわず、達成することが出来なかった。

第二尚王家の誕生祝宴に兄大米須親方を招待した金丸尚円王でしたが
実兄大米須親方は尚徳王に義理が立たないと感じながらも
弟の祝いの宴に行くつもりでした。

実兄大米須親方は将来謀反を起こすと、
危惧した尚円王側近、臣下が暗殺をするつもりで、尚円王に内緒で第二尚家誕生祝宴で実行に移す計画でした。

計画の情報をつかんだ大米須親方の側近が急ぎ連絡し難を逃れ、
十六名の臣と北山本部に逃げ延びた

息子の米須里主尚徳王が亡くなる前に奄美、喜界島へ遠征していて
尚徳王が殺された事も知らずに琉球に帰るため船に乗っていた

父の大米須親方は長男米須里主の船が本部沖を通るのを待ち連絡をとり
事情を説明し、喜界島へ戻しました。

米須里主、父の遺言を守り、御奉公せず喜界島に戻り
喜界島で残りの生涯を終える。

米須里主、旧暦2月15日命日、喜界島に墓がある。

大米須親方は本部に住みつき具志川ノロクモイと一緒になり、静かな余生を送り亡くなられまし

墓は渡久地の丘陵の一角にある。

大米須親方の子孫

顧保安比嘉筑登之親雲上助輝と称する
普天間家の一世の立初めの元祖である。

      
御先は中城仲順村の上の安里と言う家に在る

大米須親方の在所は普天間と言う家に在る

大米須親方外子伝説

具志堅大屋子
 母は本部具志堅村上間屋の娘なり

本部親雲上
 母、本部建堅屋の女子である。
 居所は伊平屋勢理客村の伊礼と云ふ
 家に在る

上間大屋子
 母は真和志上間村安謝の娘なり
 居所は与那城上原村仲村と云ふ家に
 在り

外間親雲上
 母は東風平同村の大屋の娘と云ふ
 
饒波親雲上
 母は豊見城饒波村座安の娘である
 

米須里主外子伝説

内間大屋子
 母、浦添城間村小湾と云ふ家の娘
 居所、浦添内間村前田の家に在る
 屋敷囲い初め村の地割確定した方
 御子五男二女

久高里之子
 母は真和志上間の娘
 居所は与那城平安座村に隠居し世を
 終わる。

勢理客親雲上
 母は伊平屋伊是名村の奴留
 居所は伊平屋勢理客村の東江に在る
 後は諸見と言う
 御子
 四男一女 

仲井間親雲上
 母、具志堅大屋子の娘
 居所は真和志仲井間村に住む。
 島々巡行して後帰郷する。
 御子は離島にもおる。
 詳しくわからず因って記せず
 

大宗顧保安比嘉筑登之親雲上助輝

那覇市氏集十・十一番
1248・大宗顧保安比嘉筑登之親雲上助輝 顧氏普天間親雲上
1249・四世久志親方助豊支流二子顧天祏久志里之子親雲上助眞 顧氏翁長里之子親雲上
1250・九世翁長親雲上助寄支流四子顧如琢名嘉山親雲上助思 顧氏名嘉山親雲上
1251・二世比嘉筑登之助明支流二子顧世盛比嘉筑登之助正 顧氏津波古筑登之

官江差出候地系図、十番
2705・顧氏秉徳 上原筑登之親雲上
2706・顧氏助房 比屋根筑登之親雲上
  

大宗翁壽牂國頭親方盛順

米須里主は辺士名ヌルとの御子翁氏国頭親方盛順 
1065大宗翁壽牂國頭親方盛順
   翁氏永山
1066・二世翁寄松城間親方盛久支流六
   子翁栄昌呉屋親雲上盛周 
   翁氏玉城親方
1067・三代呉屋親雲上盛周三子翁自道
   伊舎堂親方盛冨 
   翁氏伊舎堂親雲上
1068・四世伊舎堂親方盛冨支流三子
   翁昌材安谷屋親方盛孟    
   翁氏安谷屋親方
1069・四世伊舎堂親方盛冨支流二子
   翁國揖牧志親雲上盛精
   翁氏伊良皆親雲上
1070・四世佐久間親方忠義支流三子
   翁鎮忠宮城親方忠眞 
   翁氏仲井間親雲上

1071~1117に続く那覇市氏集参照

1118・四世稲嶺親方盛方支流六子翁元鵬照屋親雲上盛善     翁氏照 屋 子

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参考文献:那覇市氏集
     琉球祖先宝鑑
     古琉球三山由来記集

まとめ

第二尚家初代王尚円、弟に二男上間親方、第二尚家二代四男尚宣威王の長男実兄です。

尚徳王の三司官を勤め

御子に米須里之主がおり、その御子里主子、その息子が大宗顧保安比嘉筑登之親雲上助輝です。

今の世まで子孫達が繁栄し現在も子孫達が先祖を慕い尊敬の念を持ち影響を受け続けています。

余生を送った地、喜界島にお墓があり
今に至るまで子孫達から愛され旧暦2月15日には先祖にお礼報告と子孫繁栄のお願いの祈りをします。

辺士名ヌルとの御子
翁氏国頭親方盛順の子孫たちは琉球の歴史に多大な影響を与えた人物が多数出ています。

大米須親方は北山本部に逃れた地で
具志川ノロクモイと一緒になり、静かな余生を送り亡くなられました。

墓は本部町渡久地に在り、「大米須親方之墓」の墓碑が建っているとのこと。

子孫皆、先祖たちの功績に恥じないように努力研鑽し立派な方々を社会に送り出している一族達です。
最後まで読んで頂き有難うございました。

仲地弘和
家系
氏集首里・那覇
八番31頁 白氏 名乗頭字・信
大宗白楊基 金城親雲上信懐
家紋:武田菱、四つ割菱
勝連濱川按司御子二男勝連「屋慶名主(楊布主)」

前原高校を経て
琉球大学農学部卒業

調査に月日を重ね続けるなか
うるま市郷土地元と琉球の歴史に興味が湧き
資料を集め30年が過ぎる。

その資料を再考察し自分が感じた事
先祖の歴史を基礎に、
琉球の先人達
郷土史家伝説の資料から導き出した
自分独自の琉球歴史観を記しています。

少しでも琉球郷土史に興味を抱いている方々の
参考にしていただけたらと思い書いています。

学問的に歴史研究家
先生方に師事し学んで無いので
多々間違いも多くあるものと思います。
参考程度で読んでもらえたら幸いです。

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