察度王の地畑に金・銀・財宝の数々が埋まっていた。嘘・真実どちら

琉球按司系図

察度は体は大きいが家業の手伝いもせず、遊びほうけていた。
勝連按司の一族に絶倫の美人の娘がおり、武士等がお付き合いを申し込みすれど
美娘(ウト樽)は諸武士の申し出を拒みつずけていた。

それを風の便りで聞いた察度は、みすぼらしい服装で遊びほうけていることも考えず
美娘(ウト樽)の父按司を訪ねて、妻にしたいと申しでた。
父の承諾を得て、上手く事が運びその娘を妻にすることができた。

察度の地畑に金・銀・財宝の数々が多く埋まっていることを
勝連の按司,この事を聞きこれを掘りそして蔵に収めた。

その土地に金宮を建てた。
それが大謝名の金宮社(黄金宮)である。

察度の地畑に金・銀・財宝の数々が埋まっていた。
嘘・真実どちななのか。それは真実である。

現在ではその財宝は掘りつくしその場所には残ってないが、他の場所にまだあるかもしれない。

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察度王の先祖系図から読み解く

源為朝→長男舜天王→長男舜馬順凞王→長男義本王→御子伊平屋大主(=平安座大主)→五男並里按司→
→長男辺士名里主→二男奥間大親→長男察度王(源為朝からは九代目です。自分の系図作成の世代比較に利用できます。)
察度は源為朝の後裔である。

屋敷地に源為朝が舟で運ぶ事が出来なく残った金・銀・財宝を自分の畑に埋めた物です。

免武登能大里(首里)天孫琉球が蓄えた財宝の一部です。
察度王は、その財宝で牧港にて日本の商船より鉄塊を買い取り、農民に農具を与えて農民を
助けたことから、浦添按司として人望を集めた。

源為朝が財宝を運ぶ為に作った舟、その舟工等も皆、大島、頼朝の所に連れて行き
舟工が不足し、中国からの三十六姓の派遣になったのではないのか。

1372年、明の洪武帝が琉球に楊載を招諭使として使わす。
それに応じ、弟の泰期を朝貢の使者として送り、表を奉り臣を称し、貢物を献上している
三十六姓が贈られ、中国王朝との交易文書の仕方も教わる。

読谷村波平のことをハンジャ(方音)と呼ぶのは泰期が伊平屋大主=平安座大主(ヘンジャ)の
子孫故にそう呼ぶ。
参考文献:沖縄県姓氏家系大辞典

察度王の業績

爬龍船を拝領する。
蚕から糸をとる方法を伝授される。

察度の使者を元に遣わせ貢物を献じた。
子弟を元の国士監に送った。
南山・北山も同じく送る。
明の太祖、瑠球を琉球に改め称した。

元王朝(1271年~1368年)
元王朝とは、中東アジアから東ヨーロッパまで広大な領域にまたがったモンゴル帝国の後裔の一国である。
中国本土とモンゴル高原を中心に、東アジアと北アジアを支配した。
モンゴル人が建てた征服王朝である。

明王朝(みん、1368年 ~ 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。

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察度王の御子

察度王
居所、宜野湾市謝名村の又吉東並里村当間と言う家にある。
又宜野湾西原村奴留殿内にある。
察度王は、浦添按司でしたが西威王崩御の時、
世子幼少の為后政を乱すので、臣下は察度を推し崇めて
中山王となる。
徳化厚く土民皆心服慕い、災いを消しさり国家、豊かになる。
在位五十四年寿八十九歳で死去

御子

世子武寧王(宜野湾王子)
在所、東大里村当間と言う家にある。
御子 仲里按司、安室親方、新城親方(宜野湾村桃原と言う家、後は玉那覇と云ふ家にある。

浦添王子
浦添安波茶村天続大神の後裔の世子となる。
在所は安波茶村の小湾と言う家にある。
御子は安波茶大君、城間親方、我如古大主(我如古村の新垣と言う家にある)
内間大屋子(国場に住む)、内間親雲上、

安波茶大君は世子無く察度王の孫新城親雲上入り婿となる。
その御子は四男一女である。

玉城王子
国頭与那村根神で二男一女を出産後、后は小禄村に引っ越しする。

具志川王子
母方(ウト樽)勝連按司の後裔となる。
在所は与那城屋慶名村の中村と言う家にある。

豊見城王子
長兄滅びたため豊見城弁茂武村に隠居する。
在所は大屋と言う家にある。
御子長男弁茂武里主、二男阿波根親方、三男小禄親方(柄良村仲村渠と言う家にある。)
四男仲地親雲上(翁長村潮平と言う家にある。)五男上間大屋子(兼城阿波根村上間と言う家にある。)
六男新城親雲上(具志頭新城村に行く)

本部王子
南風原本部村に隠居する。
その御子五男二女おる。長男東風平友寄村に行く
二男は家を相続する。御子六人おる。長女東照君按司加那志(長女蔡氏升亭が室である。)

二女聞得大君加那志(薩州島津候の許しで留め置かれること三年間、帰国の時、場天奴留
久手堅奴留、玉城奴留、大里奴留、与那原奴留、南山奴留、糸満奴留の七人で、
王子の居る地に行き共に帰郷する。
後大君は西原のミケン獄で亡くなる。
大君の地で子供が出来、その御子が城間親雲上である。

察度王の裔孫には、謝名村の奥間、又吉、屋間村の奥間、宜野湾間切の根本、真志喜、奥間、奥本
瀬長按司も裔孫である。




察度王の兄弟、父、母

姉:名前不伝
弟:泰期(小禄城主、後に天願按司)
弟:天久按司
弟:安谷屋思加那志
妃:眞鍋樽
御子
世子:武寧
次男:崎山子
長女:天茶添按司加那志
父:奥間大親
母:天女(伝説)

参考文献
琉球祖先宝鑑

まとめ

察度の地畑に金・銀・財宝の数々が埋まっていた。
嘘・真実どちななのか。
それは噓のような話ですが真実である。

その黄金は何処から来たのか、琉球の民は皆、知らず。
免武登能大里(首里)天孫琉球が蓄えた財宝の一部です。

免武登能大里(首里)天孫琉球の民は、一部の民は新しい源氏琉球に溶け込み生き抜く
他は中国の地に戻り、三十六姓として子孫たちが、また琉球に戻ってきた。

しかし今また琉球は日本国になり、
中国が尖閣琉球国に中国王朝の地を築くのか、未来は・・どうなるのか
最後まで読んで頂きありがとうございました。


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仲地弘和
家系
氏集首里・那覇
八番31頁 白氏 名乗頭字・信
大宗白楊基 金城親雲上信懐
家紋:武田菱、四つ割菱
勝連濱川按司御子二男勝連「屋慶名主(楊布主)」

前原高校を経て
琉球大学農学部卒業

調査に月日を重ね続けるなか
うるま市郷土地元と琉球の歴史に興味が湧き
資料を集め30年が過ぎる。

その資料を再考察し自分が感じた事
先祖の歴史を基礎に、
琉球の先人達
郷土史家伝説の資料から導き出した
自分独自の琉球歴史観を記しています。

少しでも琉球郷土史に興味を抱いている方々の
参考にしていただけたらと思い書いています。

学問的に歴史研究家
先生方に師事し学んで無いので
多々間違いも多くあるものと思います。
参考程度で読んでもらえたら幸いです。

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