惠祖世主は大里天孫氏の後裔である。天孫氏後裔、抽象的で理解が難しい

惠祖世主の城天孫琉球

英祖王の父惠祖世主は大里天孫氏の後裔である。
大里天孫とは何なのか具体的に、誤解を招かないよう理解を深めたい。

天孫と言う言葉、天孫の子孫の始まりを解説する。

12世紀頃から琉球には源為朝の源氏琉球と天孫琉球(中国系統)の二代系統の権力闘争が繰り返されてきた。
12世紀前は源氏琉球は無く、琉球天孫(中国系統)と琉球各地豪族は独立した生き方をしていた。

今後琉球天孫を免武登能琉球天孫と記載します。

英祖王は浦添の伊祖按司惠祖の子である。
惠祖の大里天孫氏の後裔とは何ぞや・・説明付け加えてみました。

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伊祖按司惠祖の免武登能天孫氏の系図

天孫氏は乙丑(605年)より始まり宋朝の淳煕丙午(1186年)で終わると言ふ。

山東省の内登洲府蓬莱県から中国人三人が明東の内大東島と言う島に漂着した。
それから瀬長島に渡り、今の高嶺間切り大里村の西表の南嶺後瀬固と云ふ場所にきた。
布屋を作り住居とした。

一人の姓は姜風氏、名は須鳳と言う。
又の名は阿武理と云ふ。
明東阿武理大祖とも云ふ。
字名は才花という。
江西の内彰州府寧都県の人である。

二人目は姓は姜氏、名は龍玉と云ふ
又の名は免武登能大東大祖と言う。
その字名は唐度と言う。
山東省の内登州府蓬莱県の人である。
 
三人目は姓は己氏、名は公房と言う。
字名は嘉保と言う。
河南の内南陽府唐県の人である。

三人は自国中国に戻り、朋友三十三人を引き連れて再びきた。

免武登能大東大祖が免武登能城を建てた天帝氏である。

琉球国君の始め天帝氏の御子

長男天孫氏(琉球国君の始め)
二男今帰仁城主(琉球国按司の始め)
三男王農大親(琉球国百姓の始め、王農大主とも言う)
長女君々加那志(国王の神を祭祀する君々職の始め)
次女祝々加那志(庶民の神を祀る神職の始め)

天帝氏、天孫氏とは何・・?

国君の始めは天孫氏と言う。
天帝氏は初めて免武登能城を建てた方。

則ち中国は天の御子であり、
琉球は天の御孫であるから天孫氏と言う。

免武登能大里天孫氏は中国の後裔と言うことです。


天孫琉球25代は琉球統一王朝ではなく、一地方の豪族城主である
天孫琉球25代までの時代は三山(南山、中山、北山)が統一されてなく、地方の豪族は自分の思いのまま貿易、地域を治めていた。隋、唐の時代に琉球国と呼ばれた国は天孫琉球の事ではない。それはどこの城の主が琉球国と呼ばれていたのか。 ...

天孫氏は二十五代の間に各所に移居し給う。

始めは、今帰仁に住居する。
俗称今帰仁天孫氏と称する。一世、二世、三世

次に国頭辺戸に遷居する。
これを辺戸天孫氏と言う。四世、五世、六世、七世

次に中頭の越来公房に遷居する。八世、九世、十世

その後、中城、安谷屋に遷居する。
この天孫氏を安谷屋天孫氏と言う。十一世、十二世、十三世、十四世、十五世、十六世

それから島尻大里に住む。
これを大里天孫氏と言ふ。十七世、十八世、十九世、

また浦添間切りに移居する。
これを浦添天孫氏と云ふ。二十世、二十一世

次に首里に遷居する。
この地で国政をする。二十二世、二十三世、二十四世、

首里 二十五世天孫 (思金松兼王天孫王、一説には思次良金)
臣下利勇に滅ぼされる。

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惠祖の長濱系図

父王天孫二十五世思金松兼王の死後の御子達
長女聞得大君加那志
九男大里王子(今の高嶺間切大里村に逃げ後大里城主となる)
七男國頭王子(伊平屋島に逃げる。八蔵大主、鮫川大主、思紹等の元祖である)
五男中城王子(中城間切奥間村に逃げる。)
三男勝連王子(慶良間島座間味間切阿真村に逃げる。死骨は座間味村東方海浜に葬られ)
長男浦添王子(豊見城間切瀬長島に逃げる。後自害する。死骨は瀬長島の西北方岩下に葬る。
       俗称瀬長アマンチュノ墓と言う)
二男豊見城王子(中頭勝連間切比嘉村に逃げる。)
四男西原王子(浦添間切伊祖村に逃げ、後伊祖城主となる。英祖王の元祖である。)
六男今帰仁王子(国頭地方、本部間切具志堅村に逃げる。後今帰仁城主となる)
八男大宜味王子(大島に逃げる)
十男玉城王子(知念間切久高島に逃げる)
二女祝女

 

四男西原王子、父王(二十五世思金松兼王)は逆臣利勇に殺される。
北谷城主のもとに逃げ、敵の消息をうかがいながら再起の時期を見計らう。

利勇は浦添按司尊敦(1187年)が誅するところとなる。
四男西原王子は浦添間切伊祖村の城主伊祖按司の婿となり伊祖城主となる。

御死骨は伊祖村の東方高御墓に葬られる。
この御墓は、タチノ下御墓とも称する。
御神主は伊祖村の西原と言う家にある。


父王二十五世思金松兼王は、何年頃に利勇に殺されたのか。

源為朝の御子舜天王(尊敦)の1166年誕生からみると、
為朝は1165年頃に琉球に来ていますから
その時期頃に利勇に滅ぼされていると推測しています。

舜天王統(1187年~1259年)     
利勇が舜天(尊敦)に滅ぼされるのが1187年ですから22年間政権の座を維持していた。
舜天王御子舜馬順凞王(1238年即位~1248年没) 
舜馬順凞王御子義本王(1249年即位~1259年退位)

天孫系英祖王統(1260年~1349年)が政権を取り戻すまで95年の期間を費やしています。

源為朝琉球に1165年頃に琉球に来る。1170年に大島に立つ

  

源為朝の御子

舜天王  伊祖按司①、   

1166年生~即位1187年~1237年没 
   
舜天王・利勇を1187年に滅ぼす。
                      
舜天王の御子舜馬順凞王     
1238年即位~1248年没   
御子義本王                
1249年即位~1259年退位  


天孫二十五世思金松兼王        

1165年頃に利勇に滅ぼされる

四男西原王子
伊祖按司①の婿養子
浦添間切伊祖村に逃げ、
後伊祖城主となる
   

御子惠祖世主(伊祖按司)

 英祖王
即位1260年~1299年没

参考文献
古琉球三山由来記集
琉球祖先宝鑑             

まとめ      

天孫氏は乙丑(605年)より始まり宋朝の淳煕丙午(1186年)で終わると言ふ。
免武登能大東大祖が免武登能城を建てた天帝氏である。

琉球国君の始め天帝氏の御子が天孫氏です。

則ち中国は天の御子であり、
琉球は天の御孫であるから天孫氏と言う。

免武登能大里天孫氏、琉球天孫は中国の後裔と言うことです。
免武登能琉球天孫の始まりから、各天孫がどのようにできるのかを記述しています。
また天孫とはどのような一族なのか読んで頂けたらご理解できるものと思います。

最後まで読んで頂きありがとうございました。




 

仲地弘和
家系
氏集首里・那覇
八番31頁 白氏 名乗頭字・信
大宗白楊基 金城親雲上信懐
家紋:武田菱、四つ割菱
勝連濱川按司御子二男勝連「屋慶名主(楊布主)」

前原高校を経て
琉球大学農学部卒業

調査に月日を重ね続けるなか
うるま市郷土地元と琉球の歴史に興味が湧き
資料を集め30年が過ぎる。

その資料を再考察し自分が感じた事
先祖の歴史を基礎に、
琉球の先人達
郷土史家伝説の資料から導き出した
自分独自の琉球歴史観を記しています。

少しでも琉球郷土史に興味を抱いている方々の
参考にしていただけたらと思い書いています。

学問的に歴史研究家
先生方に師事し学んで無いので
多々間違いも多くあるものと思います。
参考程度で読んでもらえたら幸いです。

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