アスカ人のニライカナイ国 アスカ人の住民が作った新興都市バン国だった。

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アスカ人のニライカナイ国 アスカ人の住民が作った新興都市バン国だった。
一万年前最後の氷河の時に滅びた文明の中にアスカ文明がありました。

この古代文明の民族は北方シベリア大陸を起源とするモンゴロイドでした。
その民族をアスカ人と呼んだ。

モンゴロイドには二系統に大別され、アスカ人は原モンゴロイドといわれた。

BC二万年期、アスカ人の一部は中国大陸に渡っていった。

BC一万九千年期の頃、極地に存在した巨大な氷層のために海面は今より百二十メートルほど低く東シナ海、黄海の大陸棚は半分以上が陸塊でした。

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琉球諸島に移住した部族ムイ族

BC一万八千年期になると、東方の沿岸部にいた部族は対岸の琉球諸島に移住した。
その部族をムイ族といわれた。

文字を発明 最古の文明「ムイ文明」

BC一万六千年期、琉球諸島に移住したムイ族は、文字を発明し最古の文明「ムイ文明」を確立した

スイジン族

ムイ族が沖縄に渡った時期を同じくして、朝鮮半島経由で日本列島に渡った部族がいた。
その部族をスイジン族と言った。

この当時は朝鮮半島南端部と東シナ海大陸とは陸でつながっていました。

冬季に氷結した津軽海峡を隔てて本州、佐渡島、四国、九州、屋久島、種が島までが
サーベル状の巨島でした。その島をスイジン島と呼んだ。

ニライ島の古代ムイ文明の繁栄

奄美大島、沖縄本島、宮古島、石垣島の四島は現在の三倍から十倍の面積でした。
琉球諸島は先住民族のレグリト系種族が漁労採取をして生活を営んでいました。

そこに移住したムイ族は稲作をし豊かな生活していました。

宮古島北東沖の水没した豊かな陸塊はニライ島と呼ばれていました。
面積は三千平方キロメートルでした。

この島を中心にBC一万六千年期には農耕を中心とした古代ムイ文明が栄ました。

ニライ島の首長は日子(ヒコ)と呼ばれた。
ヒミコの長男は御子(ミコ)と呼ばれた。

カナイ島

ニライ島で栄えたムイ文明は、宮古島、南下して石垣島にも伝えられた。

その時の宮古島は列島全域が陸続きで面積は五千平方メートルでした。

この島はカナイ島と呼ばれてニライ島に次いで繁栄しました

ムイガ島

石垣島は西表島と合体し面積は千五百平方メートルでした。

この島はムイガ島と呼ばれていました

ムイ文明はより大きな地域をまきこんでアスカ文明に成長

ニライ島、カナイ島、ムイガ島はお互い交易が盛んに行われました。

ムイ文明は東シナ海大陸、スイジ島にも伝播しアスカ文明に発展しまし

東シナ海大陸や琉球諸島に先住していたネグリト族は、太陽崇拝する信仰を持っていました。

気候温暖化による海進

BC一万二千年ごろには氷河は終わり、気候温暖化で海進が始まった。

BC六千年までの期間に大津波が数回押し寄せる。

BC六千八十九年の大洪水で東シナ海大陸は水没して、人々は中国大陸の奥地やスイジン島から分離した本州島・九州島に逃げました

アスカ文明国家は消滅

都市は破壊されてアスカ文明国家は消滅しました。

BC六千五百四十四年、ニライ島、カナイ島も水没しました。

BC六千五百四十三年、日子は託宣を行ないました。

御子に中国大陸に移住するように命じました。

中国の都市「クニ常立」に渡海した御子

ニライ島、カナイ島の生き残り五万人から御子を中心とする一万人を引き連れて
中国の都市「クニ常立」に渡海しました。

日子と沖縄本島の王城「アメの常立」に残留

二万人ほどは日子と沖縄本島の王城「アメの常立」に残留し、残りは奄美大島・九州

に一万人.台湾に一万人移住しました。

御子が移住した中国のクニ

御子移住した中国クニの常立は単に「常立」と呼ばれた。

場所は現在の寧波の近郊にあり、BC七千二百十一年にニライ人により建設されました。

常立の為政者はニライ島崩壊で独立を目指し宗主の避難民の受け入れなどに難色を示した.

「常立」から御子の率いる船団は三門を目指した

BC六千五百四十二年、御子の率いる船団は常立の五十キロ南方にある三門付近の海岸に到着した。

常立のアスカ人は常立の為政者に酷い待遇をされた。

三門の周辺にいたアスカ人の各部族が御子をアスカ人の盟主に決めました。

アスカ人のニライカナイ国

BC六千五百四十年、御子を長に戴くアスカ人は、そこにニライカナイ国を作った

BC六千五百三十七年、常立の為政者が死亡しニライカナイ軍は常立を征服しました。

御子は避難民の流入の増加で食料不足に悩まされ食料不足は改善されなかった

御子は避難民の受け入れに限界を感じ、新たに受け入れ先となる植民地の探索を命じました。

アスカ人が作った新興都市バン国

先遣隊がガンジス川中流域にある現在のパトナ近郊にあったパン国を発見した。

バン国はBC七千年期の洪水で海没したヒンドスタン平原から逃れてきたアスカ人の住民が作った新興都市だった
琉球王朝が、永い間、何故タイ国と交易を持続できたか理解ができます。

まとめ

今の琉球人・沖縄人が知りたくても探すことが出来ない素晴らしい資料サイトです。
沖縄のBC二万年期の言葉の遺跡ニライカナイの具体的な内容が書きしるされている。
素晴らしいサイトです。

BC二万年の古代琉球のことをここまで具体的に書き上げるには、琉球人が未だ知りえない具体的な資料の存在があると確信します。

最後まで読んで頂きありがとうございました。

参考文献
日本超古代史研究
http://coolrip.b.ribbon.to/sapporo.cool.ne.jp/walavi/j_001.htm

仲地弘和
家系
氏集首里・那覇
八番31頁 白氏 名乗頭字・信
大宗白楊基 金城親雲上信懐
家紋:武田菱、四つ割菱
勝連濱川按司御子二男勝連「屋慶名主(楊布主)」

前原高校を経て
琉球大学農学部卒業

調査に月日を重ね続けるなか
うるま市郷土地元と琉球の歴史に興味が湧き
資料を集め30年が過ぎる。

その資料を再考察し自分が感じた事
先祖の歴史を基礎に、
琉球の先人達
郷土史家伝説の資料から導き出した
自分独自の琉球歴史観を記しています。

少しでも琉球郷土史に興味を抱いている方々の
参考にしていただけたらと思い書いています。

学問的に歴史研究家
先生方に師事し学んで無いので
多々間違いも多くあるものと思います。
参考程度で読んでもらえたら幸いです。

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