源頼朝の庶子 大友能直はウガヤ朝四十三代の頃、琉球國開拓が始まった。どの場所で検証解説してみた

天孫琉球

琉球・沖縄のどの場所で始まったのか、資料を集め検証してみた。

神武天皇ウガヤ朝七十七代目、これより三十四代前フキアエズ彦天皇(ウガヤ朝四十三代)の頃に「琉球國の開拓」という記録がある。

奄美・琉球神話がこの記録から生まれているとすれば「ウエツフミ」について、さらに詳しい研究が郷土史家に期待されることになろう。と

古代・中世奄美史料 編集者 松田清は、書いています。

スポンサーリンク

大友能直(よしなお)は遠く離れた奄美、沖縄の歴史を何故書いたのか

ウエツフミは、貞応二年(1223年)源頼朝庶子大友能直(よしなお)が、古代資料を集めて集大成したものです。

鎌倉幕府の源頼朝が亡くなり琉球國源為朝の舜天琉球天孫25代に替わり、源氏の琉球王の時代が始まっていた

沖縄の「中山世鑑」には舜天尊敦は、大日本人皇五十六代、清和天皇の孫、六孫王より七世の後胤、六条半官為義の八男鎮西八郎為朝公の男子也

源為朝源頼朝には叔父さんです。

大友能直(よしなお)は為朝の甥にあたり舜天王とは従兄弟です。

源氏琉球の歴史をまとめるには不自然さは無くごく普通の成り行きではなかったか。

琉球・沖縄では源氏琉球と天孫系琉球の二系統の時代の始まりです。

ウガヤ朝・フキアエズ彦天皇(ウガヤ朝四十三代)の痕跡

無余は「禹の苗裔(こうえい)、六代目夏后帝少康の庶子」である。

会稽にあって禹の祭祀をしつつ、「文身断髪し草莱(やぶち)を披(ひら)いて邑(まち)をつくった」(『史記』世家)。

会稽郡 - Wikipedia

会稽郡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動検索に移動

与那城郡屋部村 ヤブチ島で無余が邑(まち)をつくった。

参考資料
野村 伸一(慶應義塾大学文学部教授)
2011年8月29日、韓国全南大学での講演要旨 野村伸一「呉越文化の広がりと朝鮮・日本文化」

401 Unauthorized

 

「古事記」に豊玉姫が「ウガヤフキアエズ」を生み給う時、海辺に鵜の羽を葺草にして産殿を造ったが、其産殿が葺きあえぬ御腹たえがたくなって御子を産み給うた

与那城郡安勢理村は往昔の世より屋頂を葺かず

往昔の世より、与那城郡安勢理村は、人家悉く屋頂を蓋かず・・・(遺老説伝:球陽 外巻三 読み下し)

沖縄で自分の家に妊婦があるときには屋根を葺かないという習慣があった。(古琉球、 著者:伊波普猷)

沖縄には子が産まれると、その日に川下りという儀式があった。(古琉球、 著者:伊波普猷)参照

与那城郡安勢理村には夏礼久(ユガヤフ兼久)とよばれていた一族がいました。

昔からこの地で生活し歴史を重ねてきた夏王朝の言葉の遺跡でしょう。

李朝実録の琉球国史料(訳注)瑞宗実録 (66) (景泰四年1453年)琉球国王の使者夏礼久(ユガヤフ兼久)の先祖は李王朝に渡っています。

夏王朝紀元前1900年頃~紀元前1600年頃まで中国最古の王朝

夏王朝の始祖「禹」から六代目夏后帝少康の庶子 無余がいます。

「禹」がなくなった場所が「会稽」で、その地で先祖の「禹」の霊を祭ることが「無余」(紀元前1800年頃)に与えられた使命であった。 

 

禹の祭祀をしつつ、「文身断髪し草莱(やぶち)を披(ひら)いて邑(まち)をつくった」(『史記』世家)。

与那城群屋部村(161 遺老説伝) ヤブチ島無余が邑(まち)をつくった。

「越」 は、本家 「夏」 から分家した国だった。

勾践は紀元前496年、越を築きあげた父の允常の死去後、太子勾践が越の王になった。

紀元前585年頃~紀元前473年)周王朝の祖、古公亶父の長子太伯と兄弟が建てた国です。

神武天皇は紀元前659年即位でウガヤ朝七十七代目、これより三十四代前がフキアエズ彦天皇(ウガヤ朝四十三代)です。

「琉球國の開拓」は越の勾践と呉の太伯ではありません。

沖縄産のゴホウラ、イモガイ原初ヤマト政権のシンボルでもあり、ゴホウラ貝で作られた貝殻の腕輪が多数出土しています。

 

ゴホウラ貝・イモガイ
参考文献:邪馬台国総合説 赤椀の世直
著者 名護 博

沖縄県には、以下の13件の禹王遺跡確認されている。

参考資料

禹 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

禹 - Wikipedia

 

邪馬台国・卑弥呼・狗奴國

魏志倭人伝の女王国の境界

つぎに斯馬国(しまこく)がある。つぎに已百支国(いわきこく)がある。つぎに伊邪国(いやこく)がある。つぎに都支国(ときこく)がある。

つぎに弥奴国(みなこく)がある。つぎに好古都国(をかだこく)がある。つぎに不呼国(ふここく)がある。つぎに姐奴国(さなこく)がある。

つぎに対蘇国(とすこく)がある。つぎに蘇奴国(さがなこく)がある。つぎに呼邑国(おぎこく)がある。つぎに華奴蘇奴国(かなさきなこく)がある。

つぎに鬼国(きこく)がある。つぎに為吾国(いごこく)がある。つぎに鬼奴国(きなこく)がある。つぎに邪馬国(やまこく)がある。

つぎに躬臣国(くじこく)がある。つぎに巴利国(はりこく)がある。つぎに支惟国(きくこく)がある。つぎに烏奴国(あなこく)がある。

つぎに奴国(なこく)がある。

これは、女王の境界のつきるところである。

 

邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国など記載されている場所は、現在も沖縄に存在している場所です。

ヤブチ島には奴國のヌ(奴)があります。倭船が行き来した歴史資料も残されています

紀元前1800年頃に無余はヤブチを開きました。

紀元前659年に神武天皇は即位しました。

西暦247年頃 卑弥呼・が現れます

魏志倭人伝の狗奴国

その南に狗奴国(くなこく)がある。男子を王としている。 その官に狗古智卑狗がある。女王國に属していない。

ククチと呼ばれている場所が今もあります。与那城村饒辺小字久々釣です。

久々釣は地元では今でもククチと呼んでいますククチには、生活が営まれていた土器などが出土しています

 

参考文献
邪馬台国の会 魏志倭人伝

Error 404 Not Found

 

饒辺貝塚:与那城村饒辺小字久々釣  

久々釣遺跡:与那城村饒辺小字久々釣  

遺跡の時代:沖縄貝塚時代前期~中期の複合 

 

前期貝塚時代
参考資料沖縄貝塚文化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

沖縄貝塚文化 - Wikipedia

 

倭の女王 卑弥呼

狗奴国女王國に隷属していない。それは何故

夏王朝の庶子故隷属できない。

西暦247年 倭の女王卑弥呼の支配している地域がありました。

狗奴国の男王卑弥弓呼支配している琉球地域もありました。

卑弥呼が亡くなりました大きな冢(ちょう:つか)を作った。直径百余歩で、徇葬する者は奴婢百余人でした。

 

倭の女王卑弥呼の死

卑弥呼が亡くなり大きな冢(ちょう:つか)を作った。直径百余歩で、徇葬する者は奴婢百余人でした

卑弥呼が琉球で亡くなったのか。もし琉球で亡くなっていたら墓は何処なのか。

呉と関係のあった倭の女王卑弥呼

 魏の司馬昭の息子 司馬炎(武帝)は呉の皇帝孫晧の時、呉は滅亡(280年)した。

 倭の女王卑弥呼の死は何らかの影響はなかったのか。

 日本と呉との関係は、倭の女王卑弥呼と呉とから出てきたものかもしれない。

倭の女王卑弥呼の死から安東國(あがり)は何処

「三国志」の「魏書]の魏志倭人伝の著者の西晋の陳寿(233~297) 

倭の五王

西暦413年 東晋 倭国、安帝に貢物を献ずる

西暦421年 宋 倭王讃 安東将軍倭国王

西暦425年 宋 倭王讃 貢物を献ずる

西暦430年 宋 倭王讃

西暦438年 宋 倭王珍 倭王讃没し、弟珍立つ、珍を「安東将軍倭国王」とする。

西暦443年 宋 済倭王 「安東将軍倭国王」とされる。

西暦451年 宋 済倭王 「安東大将軍」に進号する

西暦460年 宋 済倭王 孝武帝 に貢物を献ずる。

西暦462年 宋 興倭王 孝武帝 済の世子の興を安東将軍倭国王

西暦477年 宋 興(武)倭王 興没して弟の武立つ。武自ら安東大将軍倭王と称する。

西暦478年 宋 武倭王 順帝、武を安東大将軍倭王とする。

西暦479年 南斉 武倭王 南斉の高帝 倭王の武を「鎮東大将軍」に進号する

西暦502年 梁 武倭王 武帝 倭王武を「征東大将軍」に進号する

第十六 勝連具志川おもろの御さうし 1146 東方の大主・てだが穴の大主  1165 東方の庭 

おもろそうし 東方の大主、与那城郡屋部村(夏王朝 無余の村)は最近まで東方と呼ばれていた。今でも年配の方は東方と呼ぶことがあります。

 

参考資料 倭の五王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

倭の五王 - Wikipedia

時の空白を埋める世界遺産遺跡 勝連城

空白の歴史を埋めるお金が発掘されています。

唐時代 開元通宝 11個、宋時代の景徳元宝 3個、宋時代の祥符元宝 3個、宋時代の天聖元宝 5個 宋時代 景裕元宝 1個、宋時代の皇宋通宝 4個

宋時代の 寧元宝 1個、宋時代の元豊通宝 4個、宋時代の元裕通宝 4個、宋時代の紹聖元宝 1個、宋時代の聖栄通宝 2個、宋時代の政和通宝、1個

南宋時代の淳裕通宝 1個、明時代の大中通宝 1個、明時代の洪武通宝 19個、明時代の永楽通宝 1個、明時代の宣徳通宝 1個

勝連城の城跡から歴史の空白を埋めるお金が発掘されています。

天孫琉球の時代の穴を埋める歴史のお金です

ローマ帝国とオスマン帝国の金属製の貨幣(コイン)計5点、その他多数出土した

参考資料
勝連町の文化財第6集
勝連城跡:南貝塚および二の丸北地点の発掘調査
発行 勝連町教育委員会

まとめ

古琉球で使われていた言葉、名前 神武天皇の名前も現代日本の名前です。

神武天皇即位の紀元前657年ころの琉球ではどのような名前、呼び方、書き方だったのか

天孫系25代琉球王 思金松兼王が滅亡しました。

その後は不明です。天孫系は英祖王に受け継がれいますが、歴史は不明です。

古琉球で使っていた名前、言葉があったでしょう。

琉球方言、琉球の風習は、為朝が持ち込んだ鎌倉時代の言葉、風習ではないのか。

本来の天孫系琉球25代前の言葉、名前、歴史の研究、韓国、朝鮮、中国大陸、東南アジアに眠っている古琉球の資料を集めて再検証しなくてはならない。

神武天皇の日本の歴史に沿った琉球でなくそれと並行して歩んできた古琉球の言葉、

王朝の歴史の研究、調査が必要ではないのか。

 

今の我々琉球人は、天孫系琉球人ではなく、源氏琉球人です。

天孫系琉球人と勘違いしている方々が多いと思います。

天孫系25代思金松兼王以前の琉球(倭国)の歴史、資料収集、失った天孫系琉球の風習、言葉の再検証(琉球方言も違うかも:鎌倉時代の言葉であるかも)天孫系琉球の先祖は何ぞや・・・解明していただきたい。

琉球国王察度(在位1350年 – 1395年)の時代に閩人三十六姓が来琉し源氏ヤマトと古琉球(倭国)そして閩人三十六姓のチャンプルー琉球人が現在の琉球沖縄です。

狗奴国の男王卑弥弓呼 天孫系琉球人(倭国)のこれからの調査、解明は必要です。

仲地弘和
家系
氏集首里・那覇
八番31頁 白氏 名乗頭字・信
大宗白楊基 金城親雲上信懐
家紋:武田菱、四つ割菱
勝連濱川按司御子二男勝連「屋慶名主(楊布主)」

前原高校を経て
琉球大学農学部卒業

調査に月日を重ね続けるなか
うるま市郷土地元と琉球の歴史に興味が湧き
資料を集め30年が過ぎる。

その資料を再考察し自分が感じた事
先祖の歴史を基礎に、
琉球の先人達
郷土史家伝説の資料から導き出した
自分独自の琉球歴史観を記しています。

少しでも琉球郷土史に興味を抱いている方々の
参考にしていただけたらと思い書いています。

学問的に歴史研究家
先生方に師事し学んで無いので
多々間違いも多くあるものと思います。
参考程度で読んでもらえたら幸いです。

生涯現役人をフォローする
天孫琉球
スポンサーリンク
琉球歴史探求