志仁礼久・阿摩弥姑・天帝子・天孫氏の世、一万七千八百有二年を経る

山東省魯天孫琉球

志仁礼久・阿摩弥姑の世、
九百六十二年
天帝子の世、百二十四年
天孫氏五千九百有二年
これ等合わせて一万七千八百有二年
を経ると言う。

数字の計算が合わないし理解するには難しい

「一万七千八百有二年」を
経る年代が、
気になる方々がいると思います。

その説明を記してみました。
あくまで自分の理解している範囲内であります。

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中国神話における天地開闢

中国神話における天地開闢
呉の時代に成立した。
神話集「三五歴記」
「五運暦年記」「述異記」にあり。

盤古開天闢地、盤古開天と言う。

天地がその姿かたちをなす前、
全ては卵の中身のようにドロドロで、
混沌としていた。
この状態を仮に「道(タオ)」と呼び,
万物の根源(元始天尊)と称する。

その中に天地開闢の主人公となる盤古が生まれた。
盤古誕生をさかいに天地が
分かれ始めた。

その境にいた盤古も姿を
変えながら成長していった。
そして一万八千年の時が過ぎ、
盤古も大巨人となり
計り知れない時が経った末に死んだ。

盤古が死ぬと、死体の頭は五岳に、
左目は太陽に、右目は月に、
血液は海に、毛髪は草木に
涙は川に、呼気が風に、
声が雷になった。

一万七千八百有二年」を経るは
「天地開闢」の盤古が死に
 
その盤古の死体から五岳(山)、
太陽、月、海、草木、川、風、雷
等の生物・地球の誕生、
開闢年とみています。

少々数字の差はありますが。
中国神話における天地開闢年を
指している数字です。

参考資料
天地開闢 (中国神話)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中華國歴代帝王統紀三皇五帝とは

志仁礼久・阿摩弥姑の世、962年
琉球天孫は605年に始まります。
天帝子の世は124年間続きます。
その数字を計算しますと
(962+124)-605=紀元前481年
中華の戦国時代になります。

志仁礼久・阿摩弥姑の先祖が
中華國紀元前481年戦国時代の
山東省の魯(ろ)王国の魯の土地
深い関係を感じます。
 

志仁礼久・阿摩弥姑の四世
天帝子加那志
免武登能大東大祖と言う。
姓は姜氏であります。
山東省の内蓬莱県の人である。

免武登能城を建てた方が天帝子です。

三皇

三皇については諸説あるが。

天皇・地皇・泰皇(人皇ともいう)
を三皇と言ふ
司馬貞が補った『史記』の三皇本紀では
三皇を伏羲、女媧、神農とするが、
天皇・地皇・人皇という説も並記している。

五帝

誰をもって五帝となすかは
異なる人物の組み合わせがある。
下に示してあります。

1.伏羲・太昊・炎帝・黄帝・少昊
2.伏羲・神農・黄帝・堯・舜
3.伏羲・神農・太昊・炎帝・黄帝

諸説あるが
上記記載を五帝と称している。

中華文明探源プロジェクトにより
提唱された、
中国史の新たな時代区分の1つである。

古国時代(ここくじだい)

原初諸氏期BC3800〜BC3050、750年間
太古時代
伏羲女媧時代
炎帝神農氏BC3050〜BC2510,540年間
神農 紀元前3035年頃
黄帝有熊氏BC2510〜BC1920,590年間
黄帝 紀元前2510年~紀元前2448年
顓頊 紀元前2300年頃
堯舜 紀元前2000年頃

古国時代の炎帝神農氏と免武登能天帝子との関係

炎帝神農氏
神農は初代炎帝ともされる。
初代炎帝は、古代中国の王で、
姓は姜
山東省陳に置いていた都を魯に移し
140年間在位したとも
伝えられている。

神農の末裔たち炎帝神農氏は
黄帝との衝突ののち合併・融合した。
この子孫が後の漢族とみなされている

伝説では炎帝と黄帝は
異母兄弟であり、
炎帝は少典氏が娶った有蟜氏の子で、

共に関中を流れる姜水
生まれた炎帝が姜姓を、

姫水で生まれた黄帝
姫姓を名乗ったとある

神農の子孫

炎帝神農氏は8代、
都を山東省陳(ちん
に置き、530年間続き、
炎帝の号を7代にわたって使用した
と伝えられている。
その後、黄帝の治世が
つづいたということになっている。

炎帝神農氏の姓は姜です。
免武登能天帝子の姓も姜です

神農、炎帝神農氏は
山東省陳に置いていた都を
魯に移し、140年間在位した。

志仁礼久・阿摩弥姑の先祖の世
中華國紀元前481年戦国時代の
山東省の魯(ろ)王国の魯の土地

免武登能天帝子も姓は姜氏
同じ山東省の人である。

何らかの先祖の歴史を
琉球天孫後裔達に思いを遺しかったのかも。

まとめ

一万七千八百有二年は
中国神話における天地開闢
盤古開天闢地、盤古開天の時代年のことである。

中華國歴代帝王統紀三皇五帝の話は、
志仁礼久・阿摩弥姑の
四世天帝子加那志、
免武登能大東大祖の五帝王の先祖の
話を残したい思いを伝えた。

炎帝神農氏は都を
山東省陳に置いていた都を魯に移し、140年間在位したこと。

五帝王の炎帝神農氏先祖が
山東省に住み
琉球天孫は、その後裔であることを伝えたかったのでしょう。

最後まで読んで頂きありがとうございました。

仲地弘和
家系
氏集首里・那覇
八番31頁 白氏 名乗頭字・信
大宗白楊基 金城親雲上信懐
家紋:武田菱、四つ割菱
勝連濱川按司御子二男勝連「屋慶名主(楊布主)」

前原高校を経て
琉球大学農学部卒業

調査に月日を重ね続けるなか
うるま市郷土地元と琉球の歴史に興味が湧き
資料を集め30年が過ぎる。

その資料を再考察し自分が感じた事
先祖の歴史を基礎に、
琉球の先人達
郷土史家伝説の資料から導き出した
自分独自の琉球歴史観を記しています。

少しでも琉球郷土史に興味を抱いている方々の
参考にしていただけたらと思い書いています。

学問的に歴史研究家
先生方に師事し学んで無いので
多々間違いも多くあるものと思います。
参考程度で読んでもらえたら幸いです。

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