天孫琉球25代までの時代は三山(南山、中山、北山)が統一されてなく、
地方の豪族は自分の思いのまま貿易、地域を治めていた。
隋、唐の時代に琉球国と呼ばれた国は天孫琉球の事ではない。
それはどこの城の主が琉球国と呼ばれていたのか。
琉球国と記載している豪族は勝連城の主である
李朝実録抄
(四)世宗荘憲大王実録
即位年八月辛卯、琉球国王二男賀通連、人を遣わし、
(一)太租康献大王実録
元年八月丁卯、琉球国王中山王の遣使来朝す。
同年閏十二月甲辰、是の年、琉球国中山王察度、臣と称して書を奉じ
(三)大宗恭定大王実録
九年九月庚寅、琉球国中山王思紹、使を遣わして来聘す。
天孫25世の琉球国が滅びる前までは、琉球を統一している琉球国の統一王朝ではなく、
ただ呼び名が一地方の豪族天孫琉球城主である。
首里の天孫琉球が滅ぼされても、
それは一地方の豪族城主で周辺の城主には、あまり関係のない事である。
周辺の豪族城主が天孫琉球に服従しているわけでないから。
隋、唐の時代に琉球国と使用している地方豪族城主は何処の城
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天孫琉球がその時代の代表する琉球統一豪族城主でないことの説明
免武登能の名前の由来
山東省の内登洲府蓬莱県から中国人三人が明東の内大東島と言う島に漂着した。
それから瀬長島に渡り、今の高嶺間切り大里村の西表の南嶺後瀬固と云ふ場所にきた。
布屋を作り住居とした。
1.一人の姓は姜風氏、名は須鳳と言う。
又の名は阿武理と云ふ。
明東阿武理大祖とも云ふ。
字名は才花という。
江西の内彰州府寧都県の人である。
2.二人目は姓は姜氏、名は龍玉と云ふ
又の名は免武登能大東大祖と言う。
その字名は唐度と言う。
山東省の内登州府蓬莱県の人である。
3.三人目は姓は己氏、名は公房と言う。
字名は嘉保と言う。
河南の内南陽府唐県の人である。
三人は中国王朝から派遣された役人では無く、何らかの自然の影響で琉球に偶然、辿り着いたものと思われる。
中国王朝からの派遣でしたら、準備周到で訪れる。
三人は自国に戻り、朋友三十三人を引き連れて再びきた。
馬に乗り草木の種子を嚢に入れて腰にぶら下げて
犬を先頭に先立てて巡回した。
巡回中、草木の種子をあちこちに蒔いた。
また百名村及び仲村渠境内に泊まり、木で火をおこす方法、
地面を掘り水を得て飲むことを教えた。
知念間切り志喜屋村下志喜屋村辺に、
初めて水芋の茎大きくなれば鉄鍋で煮て始めて食させた。
また、久葉の葉で木の葉衣を作り与えた。
農夫が使うウル蓑の初めなる。
グシチ葉で簾を組み膝を包み掩うこと。
竹櫛を差したり髪をといたりすることを教えた。
山東省の人は、省内登洲府蓬莱県から豚羊牛馬等禽獣の種類を多く持ってきた。
琉球の昔言葉は山東明東の言葉と似ている。
例えば豚を「ウヮー」を言ふことなど。
免武登能城の築城
あちらこちらに獄、森、川井(カー)を御仕立て給う
間切村々の境を正す
地方の踏み分けを定めて耕種の仕方を教える。
後、百名村仲村渠の境内に初めて城を建てた
免武登能城と称した。
天帝氏とは
免武登能城を建てた方が、初めて群類を分け、民、居る場所を定める。
これが天帝氏であると言う。
名は免武登能大東大祖
姓は姜氏、名は龍玉と云ふ
字名は唐度と言う
山東省の内登州府蓬莱県の人である
天帝氏には三男二女がいた。
長男は天孫氏となり、国君の初めである。
次男は按司の首である。
三男は百姓の始めとなり給う。
各々職分を授け給う。
天孫氏とは
天帝氏は初めて免武登能城を建てた方
国君の始めは天帝子則ち天孫氏と言う。
何を以て天帝子を天孫氏と言ふのか。
則ち中国は天の御子であり、
琉球は天の御孫であるから天孫氏と云ふ。
琉球天孫氏は乙丑(605年)より始まり宋朝の淳煕丙午(1186年)で終わると言ふ。
天孫琉球の始まりです。
天孫氏免武登能城で深く考慮したことで
ただ、島々だけ物事を教えたるだけでなく、
国中を統一し皆に教え給わなければと思う
辺戸天孫氏
國頭間切り辺戸村に城を移して教化をほどこし給えた。
これを以て辺戸天孫氏と呼ぶなり。
中城天孫氏
それから中城間切り安谷屋村に城を移して教化をほどこし給えた。
中城間切り安谷屋村に有る城、中城天孫氏と称するなり。
大里天孫氏
国の地脈をみて、第一の要害の所を見給うて大里地方に城を移して
三山一国に合わせて教化をし給う。
今の大里間切り南風原村に伊森の御獄があるのは、その時に御仕立てた御獄である。
伊森は喰盛のことである。故に大里天孫氏と云ふ。
伊森御獄を参拝するのは、その由来故である。
首里に城を移す
その後大里間切り首里に城を移し給えり
今の首里府は大里間切りから移し始めは、大里の名を用いて大里府と言った。
漂着した三人はいつの時代の人か
天孫氏は二十五紀洪荒の世乙丑より始まり宋朝に淳熙丙午(1186年)で滅びる。
隋(581~618年)の時代の場合
乙丑は605年です。
唐(618年 ~ 907年)の時代の場合
乙丑は665、725、785、845、905、965、1025、1085、1145年です。
その時代の琉球と中国との出来事で倭国から琉球国に代わる隋の時代の605年がその乙丑だとみています。
隋朝の第2代皇帝、煬帝(在位:604年 ~ 618年)の使者が琉球に来る。
陳 稜(ちん りょう、出生年不明 ~ 619年)
陳 稜が琉球を攻めたのは、間違いです。
台湾を攻めたのです。
台湾の岱山には陳稜廟があると言われています。
『台湾通史』でも台南市には陳稜廟があり、開山宮と呼ばれ、鄭成功のために建てられたと言われています。
台湾の高雄時代の天宮も陳稜将軍を奉祀して開山爺として奉っています。
免武登能琉球天孫開国
祖父志仁礼久
祖母阿摩弥姑
↓
天太子の父巣出美人
天太子の母は天美人
↓
天太子志仁礼久(国父)
天太子阿摩弥姑(国母)
↓
天帝子(免武登能城を建てた方)
免武登能大東大祖
姓は姜、名は龍玉と言う。
字名は唐度
山東省の内登州府蓬莱県の人
↓
長女聞得大君御殿(神職を司る)
二男按司の始
次女祝部之始
三男百姓の始
長男免武登能天孫子
↓
↓
明東思加那志王 天孫子命
両天孫子命の美骨は安谷屋村の村中より
上表高瀬岩の上にある
墓には不似岩の下、西表にて拝所あり。
岩高くして上がることは出来ない。
↓
国頭辺戸思万金王 天孫子命
美骨墓拝所は前に記したのと同じ
↓
国頭辺戸徳樽金王 天孫子命
辺戸より安谷屋天孫子の御墓に
御骨玉は移したと言い伝えがある。
太古北山今帰仁王の始まり
↓
仲順安谷屋思金万王 天孫子命
御両天孫子は、此の後神位御火神は
安仁屋東奴留殿内棚原屋敷奴留内に
仕立て拝所ある。
両天孫子の御骨は安谷屋村の山中の
伊部御獄墓と言う所にある。
↓
大里中都金王 天孫子
命南山王之始
↓
大里思真五良金王 天孫子命
↓
大里思真加目仁金王 天孫子命
↓
大里思金松兼王 天孫子命
↓
四子思次良金王 天孫子命
天孫氏十三世より二十三世までは問題なし。
二十五世に臣利勇に滅ぼされる。
利勇は中山思金松天孫子の摂政を務める。
天孫子外十四人は首里城で御守りする。
他十四人は不明である。
天孫子の世に久高島に麦・粟・黍・育つ。
知念に稲苗育つ。
首里城を築く。
参考文献
古琉球三山由来記集
著者:東江長太郎
まとめ
琉球天孫は、琉球にたどり着いた中国の3人の一人
姓は姜氏、名は龍玉と云ふ
又の名は免武登能大東大祖と言う。
字名は唐度と言う。
山東省の内登州府蓬莱県の人である。
その免武登能大東大祖が免武登能城を築城し
その御子天孫氏が北山、南山、中山地方で教えを広めた。
大里天孫が首里に城を移す。
今の首里府は大里間切りから移し、大里の名を用いて大里府と言った。
首里府のはじまりです。
琉球の地方豪族の一豪族、天孫25世が滅ぼされるが、琉球の地方豪族が皆、滅ぼさたのではありません。
最後まで読んで頂きありがとうございました。