山東省の内登洲府蓬莱県から中国人三人が明東の内大東島の島に漂着した。
それから瀬長島に渡り、今の高嶺間切り大里村の西表の南嶺後瀬固と云ふ場所にきた。
布屋を作り住居とした。
一人の姓は姜風氏、名は須鳳と言う。
又の名は阿武理と云ふ。
明東阿武理大祖とも云ふ。
字名は才花という。
江西の内彰州府寧都県の人である。
二人目は姓は姜氏、名は龍玉と云ふ
又の名は免武登能大東大祖と言う。
その字名は唐度と言う。
山東省の内登州府蓬莱県の人である。
三人目は姓は己氏、名は公房と言う。
字名は嘉保と言う。
河南の内南陽府唐県の人である。
三人は自国中国に戻り、朋友三十三人を引き連れて再びきた。
免武登能城築城
後、百名村仲村渠の境内に初めて城を建てた免武登能城と称した。
免武登能城を建てた方が初めて群類を分け、民、居る場所を定める。
これが天帝氏であると言う。
天帝氏には三男二女がいた。
長男は天孫氏となり、国君の初めである。
次男は按司の首である。
三男は百姓の始めとなり給う。
各々職分を授け給う。
国君の始めは天帝子則ち天孫氏と言う。
何を以て天帝子を天孫氏と言ふや。
則ち中国は天の御子であり、
琉球は天の御孫であるから天孫氏と云ふ。
琉球天孫の始まりです。
登能免武城主由来は七種ある。
1.天孫氏後裔の免武登能按司
2.玉城按司の長男後裔の免武登能按司
3.大里城主後裔の免武登能按司
4.安谷屋按司の後裔の免武登能按司
5.南山城主後裔の免武登能按司
6.伊覇按司後裔の免武登能按司
7.今帰仁城主後裔の免武登能按司
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免武登能城主の系図
免武登能城主(明東とも言ふ)
↓
免武登能按司
↓
免武登能按司
↓
長女思樽金
四男免武登能子
子孫は知念間切り下志喜屋村大屋
大前、親川など
二男玉城按司
玉城城主玉城按司の跡を継ぐ
長男免武登能按司
子孫は玉城間切り仲村渠村阿摩祖屋、長舛屋、
仲村渠村免武登能仲里
五男免武登能子
居住は大里間切り南風原村、
上南風原の知念。
他、大里間切り島袋村にも
子孫がいると言う
六男免武登能子
子孫知念間切り、今の知念間切り
島小の長堂、大屋の宮城。久高島、
外間村等にも居るという
三男免武登能大主 ①
居住は大里間切り南風原村、
今の南風原の知念。
他には大里間切り島袋村にも
子孫がいると言ふ。
①御子
長男免武登能子
三男免武登能子
居住は具志頭間切新城村
潮間の元祖である。
二男仲村渠子②
母方、玉城間切り仲村渠村阿摩祖屋
で生まれる。
その後免武登能按司に仕える。
乱の為、妻子と一緒に大里間切り
島袋村に逃げ林の中で住む。
後、村を建て島袋村山禰の元祖と
言う。
②御子 (尚徳王世代)
長女真鍋
二男島袋子
長男真三良金
父母と一緒に島袋村に来るが
早死する。
次女真鍋
三男仲村渠子③
③御子
四男大見武大屋子
二男仲村渠仁屋(虎寿)
三男嶺井大屋子
五男与那嶺(樽金)
長男仲村渠仁屋(松金)④
④御子
二男仲村渠仁屋
三男比嘉子
居住は大里間切り島袋村
長男仲村渠子⑤
⑤御子
長男仲村渠仁屋(思徳)
万暦年間弟と共に首里で奉公する
三男山内子
長女蒲戸
四男新城子
居住は具志頭間切新城村。
妻は新垣大屋子の娘
二男仲村渠仁屋(思武太)➅
万暦年間大和入りの時に首里で
奉公する。
分家の時二男叔父の元祖を継ぐ。
墓は末吉村境内にある。
➅御子
二男新城筑親雲上
居住は読谷山間切り長浜村。
子孫は恩納間切り恩納村に住む
三男比嘉筑親雲上
居住は大里間切り島袋村
謡仲門(うちなかじょう)役勤め
る。
俗称、ガク吹き比嘉とも称する。
四男普天間筑親雲上
住居は島袋村です。
長男仲村渠仁屋⑦
⑦御子
長女(童名伝わらず)
長男仲村渠筑親雲上
子孫確認できず
三男真蒲戸
居住は島袋村
四男加那
居住は島袋村
次女思亀
二男比嘉筑親雲上⑧
家を継ぐ
⑧御子
四男蒲戸
家督を継ぐ
二男比嘉仁屋
三男加那
長男比嘉筑親雲上⑨
⑨御子
長男平良大屋子
童名思亀
↓
御子
仲村渠仁屋
比嘉仁屋
↓
御子
比嘉筑親雲上
↓
御子
比嘉筑登之
免武登能子の由来
免武登能子は、免武登能子按司の子供なり
戦乱時、島尻大里間切り大里村に逃がれ、大里按司に奉仕する。
後兼城間切り照屋按司の娘を嫁にし、照屋村に住みつく。
これが兼城間切り照屋村赤嶺の金城の始祖である。
免武登能子は五男一女がおり。
長男照屋大比屋は照屋大主の跡目を継ぐ
二男は大城大比屋は大城大主の跡目を継ぐ
三男兼城大主は百名子の跡目を継ぐ
四男亀寿金は新垣大主の跡目を継ぐ
五男免武登能子は早死にする。
長女童名:眞玉津
次女名は乙鶴
長男照屋大比屋は継ぐ子出来ず。
百名子の由来
百名子は玉城間切百名村の住人であるが
免武登能城主敗軍の時、島尻大里間切り屋古村に逃げ隠れる
後、大里城主に奉公する。後に照屋按司の臣下になる。
他説では照屋按司は南山城主に攻め滅ぼされる
後の照屋按司は尚巴志に攻められ城は空城となると言う。
百名子は照屋城落城の時、戦死すると聞く。
遺骨は兼城間切り照屋村奴留殿内の前方表に葬られる。
百名子は照屋村東井の始祖である。
百名子には二女がいる。
長女は真鍋
次女は真呉勢
男子無く免武登能子の三男を養子にする。
後の兼城大主である。
御子五男二女おり
長男金(兼)城大屋子
御子三男一女
長男兼城子①
長女思戸
兼城間切り照屋村波平祖の長男の跡目を継ぐ(兼城子②)
兼城子②の御子三人おる
長男中城子③、二男大城大屋子、三男玉城子
中城子③の御子一男二女おる
長男崎中城大屋子④、長女思戸、次女真亀
崎中城大屋子④御子長男兼城子⑤、長女真牛
兼城子⑤は跡継ぎが無く照屋村赤嶺祖の子を跡目とする(兼城子⑥)。
兼城子⑥三男一女がおる。長男金城子⑦、二男大城子、三男大城子(波平祖の跡目を継ぐ)
長女真蒲戸
長男金城子⑦の御子三人おる。長男兼城掟親雲上⑧、二男兼城仁屋、三男金城仁屋
長男兼城掟親雲上⑧御子兼城子⑨、
兼城子⑨御子兼城大充⑩、
兼城大充⑩の子金城掟親雲上その御子金城筑親雲上⑪
金城筑親雲上⑪の御子二人長男金城筑親雲上⑫、二男金城仁屋(照屋村東井小の始祖である。)
金城筑親雲上⑫は御子三子おる。長男金城筑之⑬、二男金城仁屋、三男金城仁屋(後、東井小の
元祖となる)
長男金城筑之⑬の子金城筑親雲上⑭である。
二男座波子
三男大城子
兼城間切り照屋村波平祖の跡目を継ぐ
長女真牛金
二男赤嶺大屋子
三男山城大屋子
長女真牛
次女真牛金
兼城間切照屋村東井の金城筑親雲上、照屋村赤嶺の金城親雲上、
西赤嶺の金城筑親雲上、、東赤嶺の金城筑親雲上、
協議の結果、照屋村波平家の神元祖は東井家に移し信仰をなす。
康煕三十五年丙子六月二十三日(1696年)
仲村渠大君
居所、玉城仲村渠村の免武登と言う家にある。
唐の免登より豚を持ってきた人である。
人々に豚の食べ方を教え広めた賢人である。
御子十二人であるが三名は詳細がわからない。
長男和名大主
居所は父と同じ。
中城城大君
居所、中城奥間村仲村渠と言う家にある。
御子五男二女おる。
中城奥間村間切りの人々に色々、物事を教えた御子である。
与那城大君
居所は与那城屋慶名村仲村渠と言う家にある。
長男与那城按司
二男山内大屋子
三男与那覇大主他に五名おる。
上原大屋子は与那城上原村仲村と言う家にある。
豊見城大君
居所、豊見城長堂村仲村渠と言う家にある。
長男豊見城真玉橋村に住み
四男は豊見城高安村に住む
六男は最初豊見城柄良村に住むが、後豊見城平良村に住む
宜野湾大君
居所、宜野湾村の仲村渠と言う家にある。
長男宜野湾按司
二男我如古大主
三男嘉数大主
四男桃原大屋子
五男大山大主
六男松元大屋子
七男知花大主
浦添大君
居所、浦添村の根屋に在る。
長男浦添按司
二男仲間里主
津堅子が入り婿に入り津堅村に住み。そこで世を終える。
三男多和田村奴留殿内にある。
四男浦添内間の宮里と言う家にある。
北谷按司
居所、北谷村の仲村渠と言う家にある。
長男野国按司
二男瑞慶覧按司
三男当山大屋子
四男天久大屋子
五男伊礼大屋子
六男浜川大主
七男野嶺大主
国頭按司
國頭九ケ間切り巡行した後、北谷野国村の根屋の石川と言う家で隠居する。
長男野国大君
二男玉城前川村國頭と云ふ家である
三男美里按司
四男越来大主
五男上里大主
外にも五人いるが詳細は分からず。
浦添按司
母は屋部奴留である。
居所、浦添安波茶村屋敷囲い初められて、そこに住まわれる。
新屋と言う家である。
参考文献
古琉球三山由来記集
著者:東江長太郎
琉球祖先宝鑑
著者:慶留間知徳
まとめ
中国から来た免武登能大東大租が百名村仲村渠の境内に築城した。
免武登能城です。
教えを琉球全土に広げたい一心で、辺戸に城を移すこれを辺戸天孫
それから中城安谷屋間切りの城、中城天孫
国の地脈をみて大里地方に城を移し三山一国にすることを教化した。
故に大里天孫と言う。
その後大里間切りの大里府を首里に移した。
今の首里府は大里間切りから移し始めの頃は大里府と言った。
その時代では統一はできなかったが、
時代の流れをみると目的は達成でき大祖も喜んでいるでしょう。
最後まで読んで頂きありがとうございました。