阿麻和利に殺された濱川勝連按司の養子、望月按司は何処から来た

喜界島望月の馬琉球按司系図

望月 重隆は「望月弓上手」と呼ばれ幸氏・武田信光・小笠原長清と「弓馬四天王」と称された。
平安時代末期から鎌倉時代にかけての武士・御家人。

当初は木曾義仲に仕え、義仲が鎌倉に嫡男・義高を人質に出した際、同族の海野幸氏と共に随従する。

望月氏や同族の海野氏が義仲に重用されたのは、望月の牧の馬にあった。
当時、1500頭の馬を常時飼育しており、義仲軍に組み込みされていた。

武田信光、執権北条泰時に敵意を抱いたとする風説が流れ
1239年12月27日には次男の武田信忠を義絶する形で服従している。

武田信忠は執権北条家による処刑を恐れて武田一族その仲間らと行方を眩ませた
甲斐武田の武将、望月 重隆(もちづき しげたか)一族も身の危険を感じ

鎌倉を去り執権北条泰時の追跡の届かない遠い新天地を求め・・・・

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勝連城主望月按司の系譜

具志川王子は母方(中里親雲上)勝連按司の世子となる。
在所は与那城屋慶名村の中村と云う家也

参考文献:祖先宝鑑、具志川王子 p67

母方勝連按司とは

母方勝連按司とは伊波按司三男勝連按司,子勝連若按司、兄弟中里親雲上
中里親雲上の母は南風原津崋山村奴留殿内の女子也。

在所は与那城上原村座神仲村と言ふ家也。

中里按司の御子は皆村々に分家して不在

中里按司の長女ウト樽は察度王の御妃也。
察度王と長女ウト樽の御子具志川王子(濱川勝連按司)を相続す

勝連城主望月按司の在所も与那城屋慶名村の中村と云う家也。

参考文献:古琉球三山由来記集

望月(茂知附)勝連按司

初代勝連城主濱川按司、養子勝連城主望月按司、八重瀬按司、高花按司、真壁按司、冨藏按司、勝連子、長女真武樽金、次女真加戸金

勝連城主望月按司の子、勝連若按司、長女真武樽金

宮里主は具志川間切り喜屋武村の城主、喜屋武按司の子、喜屋武子の四男なり。
宮里主は勝連望月按司に奉仕し望月按司の信用を得て、長女真武樽金をめとる。

同役平敷屋主と合わず。室真武樽金は妊娠なれど夫婦離別する

夫人の真武樽金は生母の方外叔父の与那城間切り屋慶名村の屋慶名大主家に到り同居中に一男生む
母子ともに病にかかり世を終わる。

参考資料:望月重隆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E6%9C%88%E9%87%8D%E9%9A%86

望月 重隆(もちづき しげたか)一族の行方

文治元年(1185年)源平壇の浦の戦いで平氏は住み地を追われ
平資盛、有盛、行盛、従兵三百人は屋久島、そして喜界島に上陸しました

平資盛、有盛、行盛、従兵三百人と島の東端浮縄浦から上陸し
志戸桶、佐手久村の境に居城を構え七城と称して三年間居住する。

それから大島に渡り島民を征服し島主となります
平資盛は七城で三年間居住する時に一子を産み大蛇羅と名ずけ

大蛇羅は七城に住み塩道村、佐手久村、志戸桶村、小野津村、伊実久村の太主となる

「弓馬四天王」武田一族の望月 重隆(もちづき しげたか)

「弓馬四天王」と一人と称された武田一族の望月 重隆(もちづき しげたか)の身内も
執権北条泰時の敵意を感じその場所から武田一族その仲間らと行方を眩ませた思われます。

喜界島白水村に勝連親方屋敷跡が現存します。
荒木に居を構え島の女との間に一男を生み「勘樽金」と称した。

喜界島に望月一族が住み着く以前に平家が住み、その子供たちがいました。

その子供との間にできたのが「勘樽金」です。
望月の子孫の印の樽がついています。

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樽と喜界馬

望月氏や同族の海野氏が木曾義仲に重用されたのは、望月の牧の馬にあった
当時、1500頭の馬を飼育しており、木曾義仲軍に組み入れられていた

望月には樽系図があります。

望月勝連按司の長女の名前にも真武樽金の樽があります。

望月には樽は大事な意味を含んでいます

甲斐国誌に樽八兵衛という人物がいました。

樽八兵衛は馬の毛を染めることが巧みで、白馬を赤くし、赤い馬の毛を黒くすることが得意であった。
武田の望月騎馬軍団、馬を貴重な戦力とした武田軍

馬の毛の染め分けの特技
天喉を左右する能力
馬を自由自在に操ることができる能

樽八兵衛は災害や怪我から馬を防いでくれる守護神に仕立てられた

望月一族は馬とは切り離せない存在です
喜界島の樽と馬は望月の存在を力ずけます。

喜界島の勝連屋敷は望月勝連按司と平家の城であり
勘樽金はその後琉球の歴史に時々登場します。

トカラ馬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%AB%E3%83%A9%E9%A6%AC

トカラ列島南端の宝島で確認され、「トカラ馬」と名付けられた。
明治30年ごろに喜界島から宝島に移入されたものともいう。

トカラ馬(トカラうま)は、ウマの一品種。
トカラ列島(鹿児島県鹿児島郡十島村)で飼育されてきた日本在来馬でもある。

体高はおよそ100-120cmと小型で、在来馬の中でも最小クラス。ポニーに分類される。
毛色は鹿毛のものがほとんどである。

1953年に鹿児島県の天然記念物に指定されている。

喜界島・トカラの馬は望月の牧の馬

武田一族の望月氏や同族の海野氏が木曾義仲に重用されたのは、望月の牧の馬にあった。
1500頭の馬を常時飼育しており、木曾義仲の軍に組み入れられた馬。

喜界島でも馬の生産地として沢山の馬が飼われて中国の貿易に使われていた歴史があります
武田の望月一族が持ち込んで育てた喜界馬、トカラ馬かと推測しています。

まとめ

勝連按司、勝連城の歴史は喜界島、奄美大島、沖永良部島・・・離島との
特別な関係を維持し発展してきたようにおもえます。

喜界馬の未来は、これからの調査・研究により発展させることができる。
若い郷土歴史家等の新しい知識の発掘に之からの楽しみを期待致します。
読んでいただき有難うございました。


 

仲地弘和
家系
氏集首里・那覇
八番31頁 白氏 名乗頭字・信
大宗白楊基 金城親雲上信懐
家紋:武田菱、四つ割菱
勝連濱川按司御子二男勝連「屋慶名主(楊布主)」

前原高校を経て
琉球大学農学部卒業

調査に月日を重ね続けるなか
うるま市郷土地元と琉球の歴史に興味が湧き
資料を集め30年が過ぎる。

その資料を再考察し自分が感じた事
先祖の歴史を基礎に、
琉球の先人達
郷土史家伝説の資料から導き出した
自分独自の琉球歴史観を記しています。

少しでも琉球郷土史に興味を抱いている方々の
参考にしていただけたらと思い書いています。

学問的に歴史研究家
先生方に師事し学んで無いので
多々間違いも多くあるものと思います。
参考程度で読んでもらえたら幸いです。

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