倭国が何故、流求国と呼ばれるようになったのか

天孫琉球

当時の日本は高句麗、新羅、百済など朝鮮半島の国々に対して、朝貢を受け入れる国として力強い気概がある。
しかし中国、隋の国に対し、朝貢国日本としての付き合い方の経験、知識が無く、対処の仕方で失敗している。

隋の国に対し朝貢国日本になる認識が無く、その為、隋に礼を欠いた行動になってしまった。

日本が隋に行くためには、倭国の日本名が必要だった。
日本書記の中にも倭国人がいて、倭人を別の民族と認識していた。

その時代背景のなかで、倭国が、色々な悪い環境条件が影響を与え、隋により新しい名前「流求国」が与えられる。

日本が隋の文帝に会う為には倭国の名前が必要だった。
隋との上下関係が分からない中で、相手国に礼を欠いた文書、
隋國から日本に遣わされた国司に、日本人の信念を曲げない対応心が悪い影響を与えた。

倭国日本が中国隋との関係の行方を
その時代背景を隋書倭国伝で見てみましょう。

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隋書列伝・巻四十七 倭国伝

倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。山の多い島に居住している。
魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。

夷人(倭人)は里数を知らない。ただ日を以って計算している。
その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。地勢は東が高く西が低い。
邪靡堆(邪馬台国)を都にする。

すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(邪馬台国)である。

楽浪郡境(後漢書、この頃帯方郡は存在しない)及び帯方郡(魏志)から一万二千里離れていて、
會稽(郡・中華人民共和国浙江省紹興市付近)の東にあり、儋耳(海南島)に近いと言われていた

会稽郡 - Wikipedia
会稽郡

漢の光武帝(前6年 – 57年)の時、使者を派遣し入朝し、大夫を自称した。
安帝の時また遣使して朝貢した。これを倭奴国といった。 

後漢の桓帝と霊帝の間に、その国は大きく乱れ、互いに攻撃し合い、長い間、主導者がいなかった。

卑弥呼という名の女性がいて、鬼道でうまく衆を惑わした。国人は共立して王にした。
弟があり卑弥呼を助けて国を治めていた。

その王には侍女千人がいる。その顔を見たものはほとんどいない。ただ男子二人がいて、王に飲食を供給し、言葉を通し伝えている。

隋の文帝楊堅

楊堅 - Wikipedia


その王には宮室や樓観、城柵があり、みな兵器を持って守衛している。法の適用は、はなはだ厳しい。魏から斉、梁代に至るまで中国と交流していた。

隋の文帝楊堅 開皇二十年(600年は推古天皇の八年にあたる)の時、
倭王の姓「阿每」,字「多利思北孤」、号「阿辈鸡弥」 が遣使して隋の宮中
にやって来た。
隋の高祖は所司(担当官)に命令して、その風俗を訪ねさせた。

使者は、倭王は天を兄とし、日を弟として、天がまだ明けない時に出て政務を聴き、跏趺して坐ってます。
日が出るとそれをやめ、我が弟に委ねようといいます。と言った。

隋の高祖は、これはあまりにも筋の通らないことだ。
礼を欠いた、訓令してこれを改めさせた。

王の妻は「鸡弥」と号する。後宮には女性が六、七百人いる。
城郭はない。

太子を名づけて「利歌弥多弗利」といふ。

内官(中央官僚)には十二等級がある。
一を大徳という。次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、
次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信である。

人員の定数はない。軍尼(クニ)一百二十人があり、中国の牧宰(官名)のようである。
八十戸に一人の伊尼翼を置く。今の中国の里長(官名)のような役職である。
十の伊尼翼が一つの軍尼に属している。

その服飾は、男子はスカートのように下半身を巻く衣服、たけの短い上着を身につける。
その袖は非常に小さい。
はきものは麻などで編んだクツのような形で、その上は漆で塗られている。
これを紐で足に繋ぐ。

庶民ははだしが多い。
金銀を装飾として用いない。

昔は、着物は横幅の布を結び合わせて連ねるだけで縫うことがなかった。
頭は冠をかぶらず、ただ髪を両耳の上に垂らしていた。

隋代に至って、その王は始めて冠を制度化し、錦や模様のある布でこれを作り、金、銀の花模様を散りばめて飾りとしている。

夫人は髪を後ろで束ね、後にはまたスカート状の服、短い上着を着るようになった。
皆ふち飾りがある。

くさび形の竹を櫛にしている。
草を編んで敷物と為し、いろいろな皮で表を覆って、模様のある皮で縁取りする。

弓、矢、刀、長い矛、弩、小さな矛、斧がある。漆を塗った皮をよろいとし、骨をヤジリにしている。
兵器はあるけれども征伐の戦いはない。

王の朝廷の集会には、必ず儀仗(儀式に用いる装飾的な武器と兵)を並べその国の音楽を演奏する。

戸数は十万ほどである。

その風俗では、殺人、強盗及び姦淫はすべて死刑になる。
窃盗は盗んだ品を計算して物で賠償させる。
財産のないものは身分を没収して奴隷にする。
その他は軽重にあわせ流したり、杖で打ったりする。

つねに争い事を尋問、追求し、(罪を)承認しない者には、木でヒザを圧迫したり、
強い弓を張って、ゆづるでその首すじをノコギリのように引いたりする。
沸騰した湯の中に小石を置き、争いの当事者にこれを探らせる。
筋道の曲がった者は手がただれるのだという。

あるいは、蛇を瓶の中に置き、これを取らせる。
曲がったことをした者は手をかまれるのだという。

人は非常に心が安らかで靜かで、訴えごとはほとんどなく、盗賊も少ない。

楽器には小型の琵琶、琴、笛がある。

男女の多くは腕に入れ墨し、顔に黒い点を入れ、体に模様を入れる。
水に潜って魚を捕る。

文字はなく、ただ木を刻んだり、縄を結んで文字代わりにしていた。
仏法を敬い、百済に仏典を求めて手に入れ、始めて文字を知ったのである

卜筮(卜は亀甲や骨で占う。筮は筮竹を使う占い)を知っているが、
みこ(巫は女、覡は男)の言うことをもっとも信じる。

正月一日に至るごとに、必ず射的競技をし、酒を飲む。
その他の季節行事はほとんど中国と同じである。

囲碁、すごろく、樗蒲(サイコロ賭博のようなもの)の遊びを好む。
気候は温暖で草木は冬も青い。土地は肥えていて、水沢地が多く陸が少ない。

小さな環を鵜の首筋にかけ、水に入らせて魚を捕る。
一日に(魚)百余匹を得る。

その風俗では皿や板台はなく、カシワの葉を敷き、食べるときは手づかみで食べる。
性格は飾り気がなく正直で、優雅な感じがある。

女が多く、男が少ない。縁組みでは同姓とは組まない。
男女でお互いに好き合ったものが結婚する。
妻が夫の家に入るとき、必ず先に犬をまたぐ。

それから夫と顔を合わせる。
婦人は淫らではないし、嫉妬もしない。

死者は棺、槨に収める。
親戚や親しい客は屍に付き従って歌ったり舞ったりする。
妻子や兄弟は白い布で(喪)服をつくる。

貴人は三年の間、外でかりもがりする。
庶民は(良い)日を占って埋める。
埋葬の時には屍を船の上に置き陸地でこれを引いたり、小さな輿に乗せたりする。

阿蘇山がある。
その石は理由もなく火がおこり天にとどく。
人々はわけのわからないことだとして、祈って祭る。

如意宝珠というものがある。
その色は青で、大きさはニワトリの卵くらい。
夜になると光る。魚のひとみだと言っている。

新羅と百済は、どちらも、倭は大国で珍しい物が多いと考え、敬い見上げている。
常に使者を通わせて往来している。

大業三年(607)、王(聖徳太子)は多利思北孤、使者を派遣し朝貢した。

使者は「海の西の菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので
朝拝に(私を)派遣するとともに
出家者数十人が仏法を学ぶため来ました。」と言った。

日本の国書がいう。「日が昇るところの天子が書を日の沈むところの天子に届けますお変わりありませんか。云々」 

隋の煬帝はこれを見て喜ばず鴻臚卿(外務大臣)に「蛮夷の書無礼のあるものは二度と聞かせるな」と言った

明くる年(大業四年、608)、煬帝は文林郎の裴世清を派遣して倭国へ行かせた。

百済へ渡り、竹島に至る。南に耽羅国を望み、はるかな大海の中にある対馬国を経て
また東の壱岐国へ至る。

また竹斯国へ至り、また東の秦王国に至る。

その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。
また十余国を経て海岸に到達する。

筑紫国以東はみな倭に付属している

小野妹子

日本書紀によれば、小野妹子も一緒に帰朝した

小野妹子は隋帝からの国書を百濟で盗まれたと報告したが
日本の無礼をとがめるきつい言葉が書いてあったので、
なくしたことにしたのだろうという説がある。

倭王は小徳の阿辈台を派遣し、数百人を従え儀仗を設けて、太鼓や角笛を鳴らしやって来て迎えた。
十日後、
また大礼の哥多毗を派遣し、二百余騎を従え、郊外で旅の疲れをねぎらった。
既にこの国の都に到達した。

その王(聖徳太子)は裴世清と会見して大いに喜んで言った。

私は海の西に大隋という礼儀の国があると聞いて、使者を派遣し朝貢した。
私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。

そのため内側に留まって、すぐに会うことはしなかったが、
今、道を清め、館を飾り、大使を待っていた。
どうか大国のすべてを改革する方法を教えていただきたい。

裴世清は答えて言った。
(隋)皇帝の徳は陰陽に並び、うるおいは四海に流れています。
王(であるあなた)が隋の先進文化を慕うので、使者の私を派遣し、ここに来てお教えするのです
対面が終わって引き下がり、清は館に入った。

その時の王とは、聖徳太子である。

推古天皇は聖徳太子にすべてをまかせ。
聖徳太子は大王であり、推古天皇は祭祀を受け持つ象徴天皇であった。

煬帝は日本の国書に怒りながらも、
聖徳太子の求めに応じて、文林郎の裴世清を派遣し
隋の政治や社会の仕組み、文化などを教えようとした

文帝の時の遣使(600年)の際、隋からの国書で政治に道理がないと指摘される

もっと詳しく知りたい、学びたいという意欲が、
小野妹子や留学僧の派遣になった

その後、裴世清は人を遣って、その王に伝えた。
隋帝に命じられたことは既に果たしました。
すぐに帰国の準備をしてください。

そこで宴を設けてもてなし、裴世清を行かせた。
また使者に命じて清に随伴させ、(隋へ)来て方物を貢いだ。
このあと遂に隋と日本の交流は絶えてしまった。

業四(六〇八)年の煬帝が文林郎裴世清を派遣し
不遜にも日出ずる処の天子と称した国王、多利思北孤の実情を調査させたところである
(『隋書』巻八一・列伝第四六・東夷倭国伝)

貞観五(六三一)年 唐の太宗が新州刺史高表仁を日本に派遣

唐の太宗が新州刺史高表仁を派遣し慰撫させたが、日本の王子が無礼にも礼を争い、表仁は朝命を宣べることもできずに還った国である
(旧唐書 巻一九九上・列伝第一四九・東夷・倭国)。

天智二(六六三)年八月ついに、倭国・百済の連合軍は唐軍と白村江で開戦したが完敗
は朝散大夫上柱国郭務宗等を五度倭国に派遣し、戦後処理をおこなわせている

「通典」倭国条にも、倭は一名日本国という記録されている。

https://www.3669.com.cn/guji/89/11829/
隋書・列伝・巻四十七

流求国・倭国の条が出ています。
いままでは、流求国は無く倭国で記載されていました
隋も日本国との関係上、流求国を設けたのでしょう。

日本書記の巻第九 神功皇后(201~269年)の239年倭の女王の記載から始まり240年、243年倭国が八人を遣わし献上品を届けた。
倭国のことを知るようになった240年から大業三年(607)、その王の多利思北孤は使者を派遣し朝貢した。
朝貢までに日本国が落ち着くのに367年の準備期間を要した。

古代史レポート
『隋書』にみえる流求国 ーー建安郡の東・水行五日にして至る海島 増田修
市民の古代第15集 1993年 市民の古代研究会編,『隋書』にみえる流求国 -- 建安郡の東・水行五日にして至る海島 増田修,『隋書』の流求は、沖縄そのものをさしていることは確実であると判断するに至った,流求国の方位,流求国への行程,流求と台湾の混同,隋・唐との交渉

まとめ

隋書・列伝・巻四十七
流求国・倭国の条が出ています。
いままでは、流求国は無く倭国で記載されていましたが
隋も日本国との関係上、流求国を設けたのでしょう。

日本国に隋の遣いをやった者の報告で日本に疑念をもち交流が絶えたのが事実です。

それから時を経て唐の国に問題が移り、白村江の開戦が始まり破れ、新しい日本国が生まれてくる。

その過程に琉球国の関りがあるところが、
これからの郷土史家に興味をもたらすことが、できれば嬉しいですね。

最後まで読んで頂きありがとうございます。


仲地弘和
家系
氏集首里・那覇
八番31頁 白氏 名乗頭字・信
大宗白楊基 金城親雲上信懐
家紋:武田菱、四つ割菱
勝連濱川按司御子二男勝連「屋慶名主(楊布主)」

前原高校を経て
琉球大学農学部卒業

調査に月日を重ね続けるなか
うるま市郷土地元と琉球の歴史に興味が湧き
資料を集め30年が過ぎる。

その資料を再考察し自分が感じた事
先祖の歴史を基礎に、
琉球の先人達
郷土史家伝説の資料から導き出した
自分独自の琉球歴史観を記しています。

少しでも琉球郷土史に興味を抱いている方々の
参考にしていただけたらと思い書いています。

学問的に歴史研究家
先生方に師事し学んで無いので
多々間違いも多くあるものと思います。
参考程度で読んでもらえたら幸いです。

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