沢岻世主はどの時代の世主なのか、
その時代の人物と比較検討し
判別します。
北山大按司、今帰仁按司も時代ごとに
多くの北山大按司、今帰仁按司が
います。
祖父は北山大按司になります。
北山大按司も曽祖父、高祖父が
どの北山大按司なのか判別が
難しいです。
今回の沢岻世主は第一の系統、
天帝氏(免武登能太祖)の
二男北山大按司の
御子今帰仁按司の子
七男沢岻世主です。
同じ名前の人物が誰なのかを判別する方法として
下記四系統の時代照合することで
判別できます。
第一の系統 天帝氏(免武登能太祖)の御子の系統
第二の系統、源為朝の御子舜天王(琉球王)の系統
第三の系統、源為朝の御子大舜(天帝子)の系統
第四の系統、琉球天孫氏後裔恵祖世主の系統
源為朝の御子を一代目(初代)として基準を定めます。
二十五世天孫琉球が滅びた後の
系統は、
この二、三、四系統で説明が
できます。
第一系統605年から天孫氏の歴史、
25世天孫王(1186年)が滅びるまでの歴史になります。
605年から前の歴史は、これからの課題です。
源頼朝の庶子大友能直(よしなお)の「ウエツフミ」で
ウガヤ朝四十三代の頃に琉球國の開拓は始まった。
神武天皇はウガヤ朝七十七代目、
これより三十四代前のフキアエズ彦天皇(ウガヤ朝四十三代)
の頃に「琉球國の開拓」という記録がある。
「ウエツフミ」は、貞応二年(1223年)
源頼朝庶子、大友能直(よしなお)が、
古代資料を集めて集大成したものです。
天帝氏の二男北山大按司の御子 今帰仁按司の子七男沢岻世主です。
沢岻世主(天孫三世)
在所、浦添沢岻村の根屋の
当間と言う家にある。
死骨は沢岻村の越地と言う所の
岩下の穴に埋葬される。
世主は村々の地組等分け始め
置かれて、
後、沢岻村の西方に真竹がある
のを確認し
此の真竹は大東(中国)から持ち込
まれて
植え付けされた竹なのか尋ねて
みたら
志仁礼久・阿摩弥姑と言う人が
竹舟で本島に渡来され
国中巡行して後、
佐敷新里村の上峰の口穴と
言う大穴に埋葬された。
その国主の植え付けた竹と言う。
沢岻村に住み世の主と号する。
その頃は食物、衣服も無く
久葉の葉、
芭蕉布葉等で衣装代わりにした。
沢岻世主父
今帰仁按司
在所、東大里城の下の高岩の所の
按司御墓の西向きの墓にある
御持ちは奴留殿内にある。
祖父
北山大按司
在所は今帰仁湧川村の新里と
言う家にある。
死骨は今帰仁城の内天続獄に
埋葬する。
曽祖父
天帝子(免武登能太祖)
沢岻世主の御子
長男内間大主
在所は浦添内間村地組立始められ
内間村の根屋にある。
死骨は沢岻村の西方の下の獄内の
岩の下墓地に埋葬する。
御子は五人いる。
二男宮城大主
南風原宮城村地組初められ、
後浦添宮城村地組をされて
浦添宮城村に住む。
在所は大屋と言う家にある。
子は七人いる。
三男金満按司
伊平屋に行き大主となり、
後帰郷の時、金銀多く持ってきて人民に施し
農具を作って与え、
推崇されそれ故に金満按司と号す。
父を相続する。
御子長男沢岻小湾按司、三男真壁按司
他には東江大屋子、伊舎堂大主、
高江洲主、我那覇主がいる。
四男上間大屋子
真和志上間村立始めされた
人である。
在所は上間村の外間と言う家
にある。
子は五男二女いる。
五男内間按司
西原内間村に住むが、後小禄村
に住む。
在所は小禄村の内間と言う家
にある。
子は五男おる。
二男は小禄屋と言う家の入り婿
になる。
按司の長男内間大屋子
在所は小禄田原村与儀の家にある。
七男東風平按司
東風平村伊波村外間村慶次村地組
され東風平村に住む
在所は大名嘉と言う家にある。
子は七男二女おる。
長女は奴留である。
長女天続首大神
沢岻村の西の天雨続御獄の内に
埋葬される。
次女公芳大神
沢岻村の獄川仕立てされ獄護神
を司る
兄と伊平屋島に行き、後帰郷
される。
公芳御獄の内に埋葬される。
金武大君
母は中城仲順村大主の妹である。
前田按司
母は浦添仲間村喜屋武の娘である。
崎山霊神
母は真和志謝名村今帰仁花城の娘である。
津堅赤人
母は津堅島田森の娘である。
参考文献
琉球祖先宝鑑
まとめ
浦添沢岻村の地組を
初めて立てられ方で
沢岻世主と呼ばれた。
父は天孫氏の弟の二男北山大按司の
御子今帰仁按司です。
祖父は北山大按司です。
御子達の業績
長男内間大主
浦添内間村地組された方
二男宮城大主
南風原宮城村、浦添宮城村の地組された方
三男金満按司
農具を作り人民に施す
四男上間大屋子
真和志上間村の地組された方
七男東風平按司
東風平村東風平伊波村、
東風平外間村
東風平慶次村の地組された方
時代の按司の判別の仕方。
四系統を基本にします
系統の流れが
区分され解かりやすくなります。
605年から天孫25世が滅ぶ(1186年)まで
琉球天孫氏(ミントン・免武登能天孫氏)の時代です。
605年から先は
源頼朝の庶子大友能直(よしなお)の
「ウエツフミ」で
ウガヤ朝四十三代の頃
に琉球國の開拓は始まったと言われています。
神武天皇はウガヤ朝七十七代目、
これより三十四代前の
フキアエズ彦天皇
(ウガヤ朝四十三代)の頃に
「琉球國の開拓」という記録がある。
琉球の歴史を解明する手がかりもありますから
楽しみながら調べてみましょう。
最後まで読んでもらいありがとうございました。