三十六姓を琉球に派遣した目的は何なのか、三十六姓はどんな氏名なのか

琉球按司系図

中国明の時代にどんな目的で三十六姓を琉球國に派遣したのか
派遣したのが三十六姓と言われているが、それはどんな姓なのか調べてみました。

渡来した氏名(うじな)に時間・時代のズレがある為、三十六姓の数に影響はあったのか

中国から明以前に琉球に渡来移民はなかったのかその件も調べてみました。

スポンサーリンク

三十六姓の派遣の目的

三十六姓派遣の事は明史琉球伝に「閩中の舟工三十六戸を賜ひて貢使往来に便す」とあるのが始見である。
貢使の往来に便図ずと云ふ。
その使命の中には、航海の事も、往復文書の事も共に含まれている。

萬暦35年(1607年)尚寧の表文に、書を知る者は名を大夫長史に列して貢謝の司と為り、
海に慣るる者は任ずるに通事送還緦管を以てし、以て指南の備えと為すとある。

大島筆記に琉球國を中華の風になすべきと福州の学士三十六人を渡され、久米村一円に住す。
航海、礼儀及び通訳等の一切の支那関係事務を円滑に運ばせるために派遣されたものである。

三十六姓は殆どが福建人であり、福建でも閩県河口の人が多かったと言われている。
この辺りは隣接の候官県と併合して閩候県になっている。
河口は閩江の江口の方面で、琉球館(柔遠駅)がある場所である。

漳州人も多くいたと言ふ。

阮・毛の二姓は漳州人である。
漳州は海を以て生を為す。

童にして之を習い、老に至つても休めず、風濤の驚きは見慣れて驚きもしない
航海舟楫(かじ)の事には特に慣れて、船で一生を終わる人民が多い。
これ等の移民を「舟工」又は「善操舟者」と言う。

舟工以外に文筆を以て長史通事に任じられた人もいた。
航海長、火長、船員は官許をうけなければ自由に下船帰郷するのを許されなかった。

洪武の初年に琉球が進貢を開いて以来往復用の船隻は、支那政府から支給を受け
歴代の表文にも船隻を支給して進貢往来に便ぜられた言う事は必ず附記される慣例になっていた。

唐栄人の衰退

嘉靖(1522年 ~1566年)の末あたりから船の支給が困難になり支那の原籍號を掲げ積載貨物並びに乗員の目録を書き出したものが本國小船又は土小舟などと書かれていた。

万暦(1573年 ~1620年)以後は定額の貢物も船腹小なるため数隻に分装して行く様になった。
その頃から唐栄人が落ちぶれていく(凋謝)云々が言われるようになる。

船隻の支給が出来なくなるに従い、
船隻廻航の乗務員として河口の舟工が官選派遣された。

船隻の支給の減少に伴い移民の渡来も杜絶えてきたと言う。

追加料金なし合宿免許のyi免許

 

四夷譚館

支那では明以後、朝貢十八國との往来をスムーズにするため、四夷譚館が出来、
通事を養成し、任命した。

明會典の規定で、大通事の外に、小通事は六十名の定員で
朝鮮人五人、日本四人、琉球二名と言う事になっていた。

通事職は「夷人入朝引領回還伴送皆通事専職」と規定されていた。
通事職は本来は試験で採用されるが、土地の第二世で三ケ年通事職を勤めた者は特別任用令により
通事を任じ冠帯を支給し事にあたらしめた。

三十六姓の生活実態

三十六姓の移民は洪武の初年から始まり、中には琉球の國政にまで参興する人もいた。
永楽(明代の元号1403年 ~ 1424年)の頃までは定住したのではなく、晩年に帰郷するものもいた。

永住を希望した者でも、福州に別家、妻子もいて
福州で入籍していた者、琉球に籍を有していた者が知られている。

三十六姓の居留地

久米町、天妃町は久米村と称し両町の間の大通が久米村の中軸でした。
南口の所が久米村の正門で
普門地は普門寺の跡、今は久茂地になっている。

久米村の内兼久(夏礼久)と称する小丘がある。
三十六姓が洪武(中国、明代の元号1368年 ~1398年)二十五年(1392年)に渡来した時に安住の場所に決めた地である。
洪武四、五年の頃から程・王・朱の各姓が移住していた。

三十六姓の戸、家

三十六姓の派遣の目的は、明史琉球伝に「閩中の舟工三十六戸を賜ひて貢使の往来に便ず。」とある。
三十六戸とは三十六の家又は三十六の家族と解すべきであると言ふ者もいる。。

後の大島雑記には学士三十六人とも書いている。

三十六姓の衰退

万歴七年冊子謝杰の史録
三十六姓は僅か七姓のみである。

二十八年後の万歴三十五年の尚寧の表文に
僅か六姓のみとある。

四十年経ての中山世鑑には
蔡・鄭・林・梁・金の五家のみ

百年後の大島雑記には十八家がある。
ここでは姓と家を同意義語として、それで数が増えている。

晉の時に中原から江左に渡った姓は八姓
林・陳・黄・鄭・詹・邸・何・胡

唐末に王朝が閩に移った時に、三十六姓を率いて来たと言われている。
閩中の大姓は以下の三十姓で内八姓は晉の時代からの姓です。

二十二の姓は唐以後の姓と言われている。

林・陳・黄・鄭・詹・邸・何・胡・王・劉・張・李・趙・楊・呉・郭・范・蔣
蔡・周・高・會・孟・端木・徐・柯・方・葉・薩・蒲

琉球系図座の姓集にある久米村姓は全部で二十四姓である。

程・蔡・鄭・紅・王・金・會・鄭・陳・陳・孫・楊・梁・毛・林・林・周・阮・李
梁・阮・林

この二十四姓、これは家を主としてみている。
重複を省くと以下の十七姓になる。

程・蔡・鄭・紅・王・金・會・鄭・陳・孫・楊・梁・毛・林・周・阮・李

久米村各家の家譜が十七番に
那覇西町各家が家譜二十番に、だいたい分類されている。

中国から明以前に琉球に渡来移民はなかったのか

山東省の内登洲府蓬莱県から中国人三人が明東の内大東島に漂着した。
その三人の名は
一人の姓は姜風氏
二人目は姜氏
三人目は己氏

この三人は自國中国に戻り朋友三十三人を連れて再びきた。
合計三十六名が来たのです。
後、百名村仲村渠に初めて城を建てた免武登能城です。

琉球天孫の始まりです。首里城もその三十六人の子孫大里天孫が作った城です。
その天孫が滅びて、再度中国から三十六姓を送ったのは偶然出はないのかもしれない。

その時の生き残りの氏名があっても不思議なことではない。

尚真王代の三司官の馬怡世
庚子の年、王叔父の馬怡世が国に帰る日、憲宗は王勅に託された。

馬氏は久米系村家譜から外れて記載されていて、他にもそのようなケースがあるものと思われます。
十三番1661~1705
大宗馬思良國頭親方正胤 馬氏國頭按司

林・陳・黄・鄭・詹・邸・何・胡・王・劉・張・李・趙・楊・呉
郭・范・蔣・蔡・周・高・會・孟・端木・徐・柯・方・葉・薩・蒲
程・紅・毛・孫・梁・金

今の現状から見ますと三十六の姓は、増えてもおかしくはないと考えます。

参考文献
黎明期の海外交通史
著者:東恩納寛惇
氏集首里・那覇

まとめ

1.三十六姓を琉球に派遣した目的は

貢使往来を円滑に進めるのに必要な為

それには航海(船の修理等も含め)の事、往復文書の事も共に含まれている。
航海、礼儀及び通訳等の一切の支那関係事務を円滑に運ばせるために派遣されたものである。

2.派遣したのが三十六姓と言われているが、それはどんな姓なのか調べてみました。
その時代の三十六姓が全て明瞭に判明している事ではないが、
下記の姓だとデータは示しています。

林・陳・黄・鄭・詹・邸・何・胡・王・劉・張・李・趙・楊・呉
郭・范・蔣・蔡・周・高・會・孟・端木・徐・柯・方・葉・薩・蒲
程・紅・毛・孫・梁・金

3.中国から明以前に琉球に渡来移民はなかったのか
三十六姓の渡来は過去、二回あったものと確信しています。
中国から明以前に琉球に渡来移民はありました
山東省の内登洲府蓬莱県から中国人三人が明東の内大東島に漂着した。
その三人の名は
一人の姓は姜風氏
二人目は姜氏
三人目は己氏
この三人は自國中国に戻り朋友三十三人を連れて再びきた。
合計三十六名が来たのです。

別記事を参照

最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

仲地弘和
家系
氏集首里・那覇
八番31頁 白氏 名乗頭字・信
大宗白楊基 金城親雲上信懐
家紋:武田菱、四つ割菱
勝連濱川按司御子二男勝連「屋慶名主(楊布主)」

前原高校を経て
琉球大学農学部卒業

調査に月日を重ね続けるなか
うるま市郷土地元と琉球の歴史に興味が湧き
資料を集め30年が過ぎる。

その資料を再考察し自分が感じた事
先祖の歴史を基礎に、
琉球の先人達
郷土史家伝説の資料から導き出した
自分独自の琉球歴史観を記しています。

少しでも琉球郷土史に興味を抱いている方々の
参考にしていただけたらと思い書いています。

学問的に歴史研究家
先生方に師事し学んで無いので
多々間違いも多くあるものと思います。
参考程度で読んでもらえたら幸いです。

生涯現役人をフォローする
琉球按司系図
スポンサーリンク
琉球歴史探求