生涯現役人

琉球按司系図

孫の尚維衡を祖母おぎやかは王即位から外したのは何故

尚維衡(=浦添 朝満 1494年~1540年) 尚真王の長男。向氏小禄御殿の元祖。 父王尚真の世子であったが、廃嫡され、結局王位を継ぐことはなく、尚真王が亡くなると弟の尚清が即位し4代目王となった。 廃嫡の原因1.尚真の...
琉球按司系図

護佐丸一族は天孫氏後裔惠祖世主か北山大按司(大舜)どちらなの

中城按司護佐丸一族は天孫氏後裔惠祖世主か源為朝の北山大按司(大舜)のなのか二つの見方がある。それは英祖王二男湧川王子に起因するとみています。まず結論から申しますと、二つの流れの見方は正しいと思います。 義本王の三男なる今帰仁城主は二...
天孫琉球

倭国が何故、流求国と呼ばれるようになったのか

当時の日本は高句麗、新羅、百済など朝鮮半島の国々に対して、朝貢を受け入れる国として力強い気概がある。しかし中国、隋の国に対し、朝貢国日本としての付き合い方の経験、知識が無く、対処の仕方で失敗をしている。 隋の国に対し朝貢国日本になる...
天孫琉球

五人の倭王と日本國の天皇、日本書記での天皇と同じ人物か照合した

西漢の時に中国と日本は付き合い始めました。その時、中国はとても強い国でした。 西晋泰の始二年(西暦266年)(神功皇后 201~269年)頃から、中国、中原王朝の衰退が始まり、日本は中国との交流を停止した。 倭の五王と日本書記...
天孫琉球

魏志倭人伝の卑弥呼、日本書記の神功皇后の倭の女王卑弥呼とは

神功皇后(201~269年)応仁天皇の母、日本書記 巻第九 四十六年(245年)春三月一日皇后の遣い斯摩宿禰を卓淳国(国慶尚北道大邱市近辺)に送った。卓淳の王、未錦早江岐が、皇后の遣い斯摩宿禰に興味ある話をした。 甲子の年(2...
天孫琉球

邪馬台国は「魏志倭人伝」の「東夷伝」倭人の条で琉球にあった 。

晋(しん、265年 - 420年)(西晋)の陳寿(233~297年)の古い時代に編集したもの。 歴史の事実が在り、「 魏志倭人伝」の「東夷伝」倭人の条を下記載を個々で読んでもらい、 ありのままの文を、素直に客観的に読み判断していただきたい。 倭国、邪馬台国が何処にあるかを 本来の倭国琉球は、もう存在しません。 晋(しん、265年 - 420年)(西晋)の陳寿(233~297年)の編集によるもの 倭国琉球の歴史を現在の沖縄で少しでも積み重ねたいです。 今回、少しきずきましたが、 倭国時代に使われていた名前などが残っていることに気ずきました。
琉球按司系図

翁氏国頭親方盛順 大米須親方の御子米須里主と辺士名ヌルとの子

1689年(元禄二年)琉球王府が系図座を設けて家譜の保存 琉球王府の系図座に保管されていた家譜の総目録の 筆写本を収録した「氏集」の見方を学び、先祖の系譜作成の仕方を翁壽牂國頭親方盛順の氏集資料基に基礎を学ぶ
琉球按司系図

先祖ルーツ探し沖縄編自分探し高祖父、祖父、父、叔父の名前から

琉球王府の系図座の家譜の総目録 筆写本を収録した「氏集」の見方を習得し その知識「氏名」「名乗頭字」 自分・父・祖父・母の父・祖母の父などの名前から 共通(同じ)名乗頭字を基に先祖・ルーツの痕跡をたどり 自分の先祖を探しだし系図を作成の解説です
琉球按司系図

大米須親方尚徳王三司官第二尚家尚円王の実兄です どんな方?

大米須親方第二尚家初代王尚円、弟に二男上間親方、第二尚家二代四男尚宣威王の長男実兄です。 御子に米須里之主、その御子里主子、その息子が大宗顧保安比嘉筑登之親雲上助輝です。 辺士名ヌルとの御子 翁氏国頭親方盛順がいます。
琉球按司系図

汪英大城按司南城市大里南山王と南山王初代島尻大里按司との関係

南山王初代大里按司 南山城島尻大里間切糸満市大里に在る 初代大里按司が中山国の攻撃を防ぐ城として弟の「汪英大城按司」に築城させた。 島添大里間切南城市大里の城汪英大城按司の城がある。 南山国には島尻大里と島添大里の二人の王がいた
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