邪馬台国は「魏志倭人伝」の「東夷伝」倭人の条で琉球にあった 。

邪馬台国、卑弥呼の墓天孫琉球

邪馬台国は沖縄(琉球)にあった。

「魏志倭人伝」、「三国志」中の「魏志」、その巻三十「東夷伝」中の倭人の条のことを指す。
これは晋(しん、265年 – 420年)(西晋)の陳寿(233~297年)の編集によるもの

魏(220~265年)、洛陽を都とした江北の地を領有した王朝で普に取って代わられる
洛陽市(らくようし、 洛阳市、)は、河南省西部に位置する地級市。
長安と並んで中国王朝の首都となった。

魏の出先機関のあった朝鮮半島の帯方郡(現在のソウル北方)の使者が
何度か倭国に行き、その伊都国に滞在した時の報告がおもな資料とされている。

実際の年代は、239~248年までの九年間、
報告書は帯方郡から中国河南省洛陽の政庁に送られ
そこの文書部に保存されていたもの。

「 魏志倭人伝」の「東夷伝」倭人の条を下記載を個々で読んでもらい、
ありのままの文を、素直に客観的に読み判断していただきたい。
倭国は何処にあるのか・・?

本来の天孫、倭国琉球は、もう存在しません。
倭国琉球の歴史を現在の沖縄で少しでも積み重ねたいです。

今回、少しきずきましたが、
倭国時代に使われていた名前などが残っていることに・・!

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三國志 魏書 卷三十 東夷伝 倭人  (魏志倭人伝)

倭人は帯方(帯方郡・ソウル)東南大海の中に在り、山島によりて國邑をなす。もと百余國。漢の時に朝見する者あり。今使訳通ずる所三十國。

郡(帯方郡)より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓國をへて、しばらく南し、たちまち東し、その北岸狗邪韓國(韓国・釜山付近)に到る。

七千余里にしてはじめて一海を度る。千余里にして対海【馬】國(対馬)に至る。
その大官を卑狗(彦)といい、副(官)を卑奴母離という。居する所絶島(離れ島)にして、方四百余里ばかり。
土地山険にして、深林多く、道路は禽鹿の径(禽や鹿の道しかない)の如し。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(米をかうこと)す。

また南に一海を渡ること千余里(名を瀚海という)にして一大國(壱岐國)に至る。
官をまた卑狗(彦)といい、副(官)を卑奴母離という。方(域)三百里ばかり。
竹木叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地ありて、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に(出て)市糴す。

また一海を渡ること千余里にして末廬國(松浦)に至る。四千余戸あり。山海に浜(沿岸)いて居住)す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。
よく魚鰒(あわび)を捕え、水深浅となく、皆沈没してこれを取る。

東南、陸行五百里にして、伊都國(筑前の国怡土郡)に到る。官を爾支(にき)といい、副を泄謨觚(しまこ)柄渠觚(ひここ)という。
千余戸あり。世に王ありて、皆女王國に統属す郡使の往来常に駐まる所なり

東南、奴國(筑前の国、那の津、博多付近)に至るには百里。官を兕馬觚(しまこ)といい、副を卑奴母離(夷守)という。二万余戸あり。

東行して不弥國(久留米)に至るには百里。官を多模といい、副を卑奴母離という。千余家あり。

南、投馬國(薩摩・鹿児島)に至るには水行二十日。官を彌彌といい、副を彌彌那利(耳成・耳垂れ)という。五万余戸ばかり。

南、邪馬壹【臺】國(邪馬台国)(女王の都する所なり)に至るには水行十日、陸行一月。官に伊支馬(いきま)あり、次を彌馬升(みまと)といい、
次を彌馬獲支(みまわき)といい、次を奴佳鞮(なかて)という。七万余戸ばかり。

 
女王國より以北はその戸数・道里を略載し得べきも、その余の旁國は遠絶にして詳かにするを得ず。

次に斯馬國(島原)あり、次に已百支國(樋脇)あり、次に伊邪國(屋久島)あり、次に郡支國(竹崎・種子島)あり、
次に彌奴國(水垂ノ瀬・口之島)あり、次に好古都國(高元崎・中之島)あり、
次に不呼國(諏訪瀬島)あり、次に姐奴國(とくのおざき)あり、次に対蘇國(大瀬崎・宝島)あり、

次に蘇奴國(佐仁・奄美大島)あり、次に呼邑國(大島・奄美大島あり、次に華奴蘇奴國(金見崎・徳之島)あり、
次に鬼國(喜界島)あり、次に爲吾國(赤崎)あり、次に鬼奴國(知名・沖永良部島)あり、

倭国琉球の地

次に邪馬國(山原)あり、次に躬臣國(喜如嘉)あり、次に巴利國(羽地)あり、
次に支惟國(許田)あり、次に烏奴國(恩納)あり、次に奴國(山田)あり。
これ女王の境界の尽くる所なり

 
その南に狗奴國あり男子を王となその官に狗古智卑狗あり。女王に属さず

郡(帯方郡・ソウルより女王國に至るには万二千余里。

男子は大小となく、皆黥面文身す。古より以来、その使中國にいたるや、皆自ら大夫と称す
夏后少康の子、会稽に封ぜられしに、断髪文身し、もって蛟竜の害を避く。

今、倭の水人、よく沈没して魚蛤を捕え、文身し、またもって大魚・水禽を厭わせしも、後やや以て飾りとなす。
諸國の文身各々異り、あるいは左にあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。

その道里を計るに、まさに会稽東治【冶】の東にあり(浙江省紹興市南部に位置する)
会稽郡 – 紹興市一帯に設置された郡(前233年-758年)、会稽県 – 紹興市の旧称。

会稽郡 - Wikipedia

倭国琉球の自然、風俗、風習、生活様式

その風俗淫ならず。男子は皆露紒し、木緜を以て頭に招ぐ。その衣は橫幅にして、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。
婦人は被髪屈紒(ひはつくっかい)し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれをきる。

禾稲(かとう)・紵麻(ちょま)をうえ、蚕桑緝績(さんそうしゅうせき)し、細紵縑緜(さいちょけんめん)をいだす。
その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。
兵には矛・楯・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。有する所、擔耳・朱崖と同じくは無し。

倭の地は温暖にして、冬夏生菜を食す。皆徒跣。屋室ありて、父母兄弟、臥息処を異にす。
朱丹を以てその身体に塗る、中國の粉を用うるが如きなり。食飲には籩豆を用い手食す。

その死には棺あるも槨なく土を封じて冢を作る。はじめ死するや喪に停まること十余日、時にあたりて肉を食わず、喪主哭泣し、他人就いて歌舞飲酒す。
すでに葬れば、挙家水中に詣りて澡浴し、もって練沐の如くす。

その行来、渡海して中國に詣るには、つねに一人をして頭梳らず蝨を去らず、衣服垢汚、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。
これを名づけて持衰と爲す。もし行く者吉善なれば、共にその生口・財物を顧し、もし疾病あり、暴害に遭えば、便ちこれを殺さんと欲す。
その持衰謹まずといえばなり。

真珠・青玉をいだす。その山に丹あり。その木には・杼・予樟・楺・櫪・投・橿・烏号・楓香あり。
その竹には篠・簳・桃支。薑・橘・椒・蘘荷あるも、以て滋味となすを知らず。獮猴・黒雉あり。

その俗、挙事行来に云爲する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如く火坼を視て兆を占う。

その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む

大人の敬する所を見れば、ただ手を搏ち以て跪拝に当つ。その人の寿考、あるいは百年、あるいは八・九十年。

その俗、國の大人は皆四・五婦、下戸もあるいは二・三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗竊せず、諍訟少なし。

その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を没す。

尊卑各ヽ差序あり、相臣服するに足る。

租賦を収むるに邸閣あり。國國市ありて有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。

女王卑弥呼

女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。(諸國)これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の如きあり

王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國にいたり、および郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遣の物を伝送して女王にいたらしめ、差錯するを得ず。

下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲りあるいは跪き、両手は地に據り、これが恭敬を爲す。
対応の声を噫(/)という、比するに然諾の如し

その國、本また男子をもって王となし、とどまること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、すなわちともに一女子を立てて王となす。
 
名を卑弥呼(卑弥呼)という。鬼道につかえ、能く衆を惑わす。年すでに長大なるも、夫婿なく、男弟あり、たすけて國を治む。
王となりしより以来、見る者少なく有り、婢千人を以て自ら侍せしむ。
ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。

女王國の東、渡海千余里にしてまた國あるも、皆倭種なり。

また侏儒國(南大東島)あり、その南にありて人の長三、四尺、女王を去ること四千余里。

また裸國・黒歯國あり、またその東南にありて船行一年にして至るべし。

倭の地を參問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋五千余里ばかりなり。

景初二年(238年)六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏將を遣わし送りて京都に詣らしむ。

その年(238年)十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、

親魏倭王卑弥呼に制詔す。

帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米(ナビー)次使都市牛利(トシー・ウシー)を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉りもって到る。
汝がある所はるかに遠きも、すなわち使を遣わして貢献す。これ汝の忠孝、我はなはだ汝を哀れむ。

今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮授せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。

汝が来使難升米・牛利、遠きをわたり、道路勤労す。今、難升米(ナビー)を以て率善中郎將となし、牛利(ウシー)を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。

今、絳地交龍錦五匹・絳地縐粟十張・絳五十匹・紺青五十匹を以て、汝が献ずる所の貢直に答う。
また特に汝に紺地句文錦三匹・細班華五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二ロ・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各ヽ五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。
還り到らば悉く録受し、もって汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝によきものを賜うなり」と。

正始元年(240年)、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔を齎し、金帛・錦・刀・鏡・采物を賜う。
倭王、使に因って上表し、詔恩に謝す。

その四年、倭王、また使の大夫伊声耆(伊舎堂)・掖邪狗(古謝)等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎將の印綬を壱拝す。

その六年、詔して倭の難升米(ナビー)に黄幢を賜い、郡に付して仮授せしむ。

その八年(248年)、太守王頎官に到る。倭の女王卑弥呼(卑弥呼)狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。
塞曹史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を爲してこれを告喩す。

卑弥呼(卑弥呼)死す

卑弥呼(卑弥呼)以て死す。大いに冢を作る。徑百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。

更に男王を立てしも、國中服せず。更に相誅殺し、当時千余人を殺す。

また卑弥呼の宗女壹【臺】與年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。
政等、檄を以て壹【臺】與を告喩す。
壹【臺】與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗(古謝)等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。
因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雑錦二十匹を貢す。

参考サイト:http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/gishi/gishi_framepage.htm
三國志 魏書 卷三十 東夷伝 倭人  (魏志倭人伝) 

参考文献
邪馬台国は沖縄だった!
ー卑弥呼と海底遺跡の謎を解くー
著者 木村政昭

卑弥呼の墓

「魏志倭人伝」、その巻三十「東夷伝」中の倭人の条から
うるま市石川山田から南をgoogleマップでは世界遺産勝連城方面を示します。

その周辺に卑弥呼の墓らしきものを調べてみました。

中門墓(俗称橋かき墓)

標高約五十五メートルの丸丘の麓に
墓が集中している。
この丘を俗称「コクバグフ」と呼んでいる。

掘り込み式十二基、崖葬墓四基がある。
掘り込み式で、墓庭に中門を持つ中門墓(俗称橋かき墓)と呼ばれる。

勝連間切りの勝連ノロの御墓である。

掘り込み墓、崖葬墓など古墓は多くある、庭にアーチ状の中門式、構造物はこの中門墓のみである。
石斧が一点採取されている。
所在地:勝連平安名国場堂1568-2番地平安名ノロの墓

平安名ノロの墓

平安名ノロ墓は俗称「コクバグフ」の南側麓の中門墓の西隣にあり、
掘り込み式で墓庭の西側に香炉一基が置かれている。

うるま市与那城・勝連はノロ・ユタがいて、現在も代々受け継がれ、健在である。
卑弥呼がその地域・場所にいた可能は大いにあります。

参考文献
勝連史

まとめ

「 魏志倭人伝」の「東夷伝」倭人の条を個々で読んでもらい、
ありのままの文を、素直に客観的に読み判断していただきたい。
倭国、邪馬台国は何処にあるのか

本来の天孫、倭国琉球は、もう存在しません。
倭国琉球の歴史を現在の沖縄で少しでも積み重ねたいです。

最後まで読んで頂きありがとうございます。


仲地弘和
家系
氏集首里・那覇
八番31頁 白氏 名乗頭字・信
大宗白楊基 金城親雲上信懐
家紋:武田菱、四つ割菱
勝連濱川按司御子二男勝連「屋慶名主(楊布主)」

前原高校を経て
琉球大学農学部卒業

調査に月日を重ね続けるなか
うるま市郷土地元と琉球の歴史に興味が湧き
資料を集め30年が過ぎる。

その資料を再考察し自分が感じた事
先祖の歴史を基礎に、
琉球の先人達
郷土史家伝説の資料から導き出した
自分独自の琉球歴史観を記しています。

少しでも琉球郷土史に興味を抱いている方々の
参考にしていただけたらと思い書いています。

学問的に歴史研究家
先生方に師事し学んで無いので
多々間違いも多くあるものと思います。
参考程度で読んでもらえたら幸いです。

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