大新城親方安基とは、どんな人物なのか

琉球按司系図

尚真王が今帰仁巡察のおりにお手掛けした神女との間に生まれた子
母は今帰仁仲尾次村湧川屋の女子と言う 

尚真王の長男として生まれるが、下りて臣籍となる

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新城親方安基は大明嘉靖年間(1522~1566年)に御太子一件とは

尚元王は幼少の時、病弱のために、王府内に王位継承に反対する動きがあった。
三司官の一人、新城親方安基が、反対論を押し切り世子尚元を即位させた。

和為美(国頭親方景明)、葛可昌(城間親方秀信)とともに三司官を務める。

1555年、世子尚元の父尚清王が重篤となったとき、
新城安基・国頭景明・城間秀信を枕元に呼び、世子尚元を立てて、よく補翼せよと遺命した

しかし尚清王が薨去した後、国頭景明と城間秀信は、世子尚元は病弱である。

大伊江王子尚鑑心こそ、王位に就くべきであると主張
王子たちの間で王位継承争いが起こる。

これに怒った新城安基が、王の希望する王妃の産んだ長子・尚元を世継ぎに立てるのが常道、すでに王の遺命を受けている。と擁立し、
諸臣は新城安基に従い、尚元は王位に就いた。

三司官15人と御吟味替えになりたる時、名を四海に顕したる忠臣なり
その時の三司官は自殺するまた僧侶になる者もいた

参考文献

新城安基 - Wikipedia

 

尚元王の即位に功あり。

歴代当主は羽地間切の総地頭職を務め五大姓の一つとして、門中は栄えた
毛氏の門中には、毛氏美里殿内・毛氏東風平殿内・毛氏佐渡山殿内あり、家譜数は67冊に及んでいる。

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大新城親方の外子伝説

仲宗根親雲上
 母、今帰仁崎山村大屋の女子と言
 う。
 居所は大宜味同村に在る

長男大宜味親雲上
 御子長男前田大屋子なり

真喜屋親雲上
 母は親川村源河屋の女子と言う。
 居所は羽地田栄良村古加喜屋という
 家にある。
 御子は三男四女

安室親雲上
 母は西原小那覇村大屋の女子である
 居所は浦添安波茶村の大家仲間と言
 う家にある。
 御子五男一女

参考文献
琉球祖先宝鑑
著者:慶留間 知徳

氏集那覇・首里・九番1001~1064に子孫登録がされ活躍している

譜 九番1001~1064まで
1001・大宗毛龍唫・新城親方安基 毛氏池城親雲上

毛氏池城殿内 - Wikiwand
毛氏 池城殿内 は、唐名・毛龍唫、新城親方安基を元祖とする琉球王国の士族(首里士族)。五大姓(五大名門)の一つ、毛氏池城の大宗家(本家)。名乗頭は「安」。

 

まとめ

今回は大新城親方安基 の母親、父親が誰なのかハッキリさせる。
王府内の尚元の王位継承に反対する動きを封じ王即位に貢献した人物である。
池城殿内の忠臣たちが尚元王家を守り、現在まで子孫達がお互いの先祖を誇りに
維持しているところが凄いです。

最後まで読んで頂きありがとうございました。

仲地弘和
家系
氏集首里・那覇
八番31頁 白氏 名乗頭字・信
大宗白楊基 金城親雲上信懐
家紋:武田菱、四つ割菱
勝連濱川按司御子二男勝連「屋慶名主(楊布主)」

前原高校を経て
琉球大学農学部卒業

調査に月日を重ね続けるなか
うるま市郷土地元と琉球の歴史に興味が湧き
資料を集め30年が過ぎる。

その資料を再考察し自分が感じた事
先祖の歴史を基礎に、
琉球の先人達
郷土史家伝説の資料から導き出した
自分独自の琉球歴史観を記しています。

少しでも琉球郷土史に興味を抱いている方々の
参考にしていただけたらと思い書いています。

学問的に歴史研究家
先生方に師事し学んで無いので
多々間違いも多くあるものと思います。
参考程度で読んでもらえたら幸いです。

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