鎌倉の勝連城、琉球の文化・芸術おもろそうしは鎌倉源氏平家の書物

波武田の里、平安座島琉球按司系図

現在の一部の沖縄人は本土人に対してヤマトンツと別の民族みたいに呼ぶのか

沖縄人・琉球人の大和に対する反発の思いは何処からやってきたのか。

現在の沖縄は天孫系25代の沖縄人・琉球人に源氏・平家・中国36姓のミックス琉球人です。

しかし、源氏の琉球人です。

源氏琉球以前は琉球は中国本土と自由に貿易をしていました。

その後は島津の支配下にありましたが。

1900年前後まで中国と行き来してお互い争わず助けあって生きてきました。

中国人36姓も琉球人として定着しています。

それ故、源氏琉球人の沖縄人は、中国に対して悪い感情で見ることができないです。

源氏琉球人は何故、ヤマトンツに特別な感情があるのか不思議です。

現在、尖閣で琉球、日本、中国で怪しい雰囲気があります。

平和に解決できる方向を願いたいです。

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何故、武田紋なのか

首里王府に登録されている割り菱の武田家紋、何故武田紋なのか、武田を追いかけて数十年後見つけました。

その波を追いかけ,波武田の場所を発見しました。

大島郡和泊町畦布字名波武田の土地を見つけました。

それか「畦布」「波武田の波」を調べました。

その調査の中で為朝伝説が関係してくることがわかりました。

源為朝伝説

源為朝は保元の乱(1156年)に敗れて伊豆諸島に流された後、琉球に渡ったという伝説があります。

琉球に渡る前に沖永良部島を訪れて、別名の「畦布」に住んだと思われます。

沖縄の郷土歴史研究には必要な著書 

参考資料:慶留間知徳著 琉球祖先宝鑑(p77

源為朝 御子

その後、琉球に渡り下記の4子息が出来ました。

源為朝 御子 実久三次郎(加計呂麻島実久の女との子なり)

永良部世主(俗称 永良部王 永良部ノロとの子)

今帰仁城主(童名:大舜)(今帰仁間切り勢理客村ノロとの子)

中山舜天王(童名:尊敦)(大里按司の妹真鍋樽金との子)

参考文献(p-360 ) 古琉球 三山由来記集 著者 東江長太郎

源氏の琉球王舜天

琉球の舜天王(童名:尊敦)その御子舜馬順煕王、その御子義本王

義本王(1206~1249~1259(退位)没年不明 )

義本王は王位から退いた(1259年)後、為朝が一時居住した地、沖永良部島を慕って来島し沖永良部島最初の按司になりました。

現在の畦布字にある、湾門山頂上の大和城に居住しました

「畦布」の地名も大和城按司府(按司の駐在所)の跡の由来で付けられたとされています。

義本王の御子に伊平屋大主(波武田)

伊平屋田名村で海中の業をなす時、雨風荒れて漂流し与那城平安座島に流され住みつきました。

長男 平安座大主(波武田)その他の御子

長男 平安座大主(波武田) 次男内間大主 三男平敷川大主 四男与那城南掟

五男並里按司(察度の先祖)その外に三名の子がいました。

(琉球千草の巻き,平安座村)

平安座島に波武田神様之墓の碑見つかっています。

嵐にあい流れ着いた伊平屋大主の言い伝えは残っています。

波武田(ハンタ)の名も残っています

参考資料:波武田神様之墓の碑

平安座八太郎 - がじゅまるの樹の下で。
先日、平安座島で偶然出くわしたお墓。なになに?平安座八太郎之墓。八太郎……もしや、ハッタラーか!?平安座の住民のお墓エリアとは違う、もっと山の中に登っていった所に作られているお墓。案内板も何もなかったのですが、あの有名な(笑)平安座ハッタラーさんのお墓なのでしょうか。すぐ隣には、これまた古いお墓。墓標は戦前の昭和12年...

波武田の波は何処からくるのか

源氏武田と関係のある波加利荘は甲斐国都留群の荘園でした。

古群氏は1213年和田合戦で和田義盛の挙兵に参加して敗れました。

波加利荘の跡地は恩賞として甲斐源氏の武田信光(冠者)に与えられました。
その後「吾妻鏡」仁治2年(1241年)に上野国三原壮をめぐり海野幸氏と境争論を起こして敗訴

執権北条泰時に敵意を抱いている風説が流れて、1241年12月27日、父武田信光(1162~1248)伊豆入道光蓮は次男の武田信忠を義絶する形で北条家に服従する。

武田信忠はそれから生死がはっきりしないです

北条家に反発している武士仲間と鎌倉から命の危険を感じて行方不明

波加利荘は薩摩国の島津忠久が拝領し南北朝期まで107年間、島津領であった

波加利荘を継ぐべき武田信忠が義絶され父・一族、源氏の血を救うための行方不明

奄美大島周辺の隠れ武士達

奄美大島に流れついた平資盛(1161~1185)主君:安徳天皇 氏族:桓武平氏維衡流(伊勢平氏)

1184年12月、資盛は、1185年3月24日、壇ノ浦の戦いで敗れ、平氏は滅亡しました。

奄美大島には、壇ノ浦の戦いで源氏に敗れた平氏の残党が落ち延びてきたという平家伝説が各地に数多く残っています。

平行盛は奄美大島の龍郷町戸口に、有盛は奄美市名瀬浦上に、資盛は瀬戸内町加計呂麻島の諸鈍に、3人を祀った神社が残されています。

壇ノ浦の戦いで義経軍水軍に対して、平知盛率いる平氏軍が壇ノ浦で衝突し合戦が始まりました。

範頼軍は陸地に布陣し平氏の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。

「平家物語」によれば和田義盛馬に乗り渚から沖に向けて遠矢を二町三町も射かけたという。

平の資盛、有盛、従兄弟の行盛は、和田義盛は憎き敵の一人だった。

波加利荘の跡地は恩賞

武田信忠親子は和田義盛合戦に打ち勝ち古群経忠・保忠兄弟は和田常盛・横山時兼らと波加利荘で自害する。

波加利荘の跡地は恩賞として甲斐源氏の父武田信光(冠者)に与えられました。

武田信忠が次の波加利荘の主になる夢が砕かれて、たどり着いた地に波武田とつけたのでしょう。(確証は無いですが仮説です)

信義 (武田)太郎 駿河守護 大膳大夫 従五位下

信光 石和五郎 伊豆守 伊予守 大膳大夫 従四位下 安芸守護

信忠 1290年 京城居住宗見駿河守源朝臣信忠 海東諸国紀 (p87)

海東諸国紀記載の信忠は祖父の信義 (武田)太郎 駿河守護の自分の何処の種(記載項目)に駿河守護信忠と記載、時期や状況検討調査を必要あり。

大島郡和泊町畦布字名波武田は琉球國にどの様に移動するのか

大島郡和泊町畦布字名波武田に住んでいる義本王の御子に伊平屋大主(波武田がいます。

伊平屋田名村で海中の業をなす時、雨風荒れて漂流し与那城平安座島に流され住みつきました。

その地で伊平屋大主(波武田)の子供ができます。

長男 平安座大主 次男内間大主 三男平敷川大主 四男与那城南掟 五男並里按司 その外に三名の子がいました。

(琉球祖先宝鑑p120)

平安座大主(波武田)の五男並里按司(p75)、その 長男辺士名里主その長男奥間大親、二男奥間大親(p75)
その二男の長男察度王、二男泰期「読谷村波平(ハンジャ)」

察度王の御子武寧王、浦添王子、玉城王子、具志川王子「母方勝連按司の後裔の世子なる」

参考資料:球祖先宝鑑p67

世界遺産勝連城の勝連按司の歴史

濱川勝連按司までには、3系統の勝連按司がいます

英祖王の長男大成王の五男の初代勝連按司、二代勝連按司、三代勝連若按司

今帰仁城主大舜北山大按司の御子今帰仁按司、その長男越来按司、その長男美里按司、
その長男伊覇按司の三男勝連按司、その長男勝連若按司です。二代で終わります。

伊覇按司三男勝連按司他御子に中里親雲上がいます。その中里親雲上の娘が長女ウト樽(察度王の妃、具志川王子の母

それから英祖王二男湧川王子、御子北山世主湧川按司、その長男丘春今帰仁按司、その長男本部大主今帰仁按司、その長男仲昔今帰仁仲宗根若按司

その御子今帰仁子(妃:伊覇按司の娘)、その御子伊覇按司、そして子勝連按司がいます。

その伊覇按司長女真加戸金尚巴志王の妃です。

その後は察度王の御子具志川王子濱川勝連按が続きます。

濱川勝連按司までの出自

高祖父今帰仁按司の父は北山大按司、高祖父今帰仁按司、曾祖父越来按司、祖父美里按司、
伊覇按司、三男勝連按司、 その長男勝連若按司

その他御子二男浦添親方、三男具志頭親方、謝名親方、宜野湾親方、西銘大屋子、中里親雲上がいた。

勝連若按司の長男は玉城布里に行き二男は豊見城高嶺村に行き三男は浦添屋冨祖村に行く

参考資料:琉球祖先宝鑑p101~103

中里親雲上の長女ウト樽は察度王の御妃でした。母方の世界遺産勝連城の主、濱川勝連按司は察度王の子供、
具志川王子(濱川勝連按司)が相続する。

(参考資料:琉球祖先宝鑑)

初代濱川勝連按司の兄弟

初代濱川勝連按司の兄弟 長女萬久金(尚忠王の妻 子尚思達二男屋慶名主(別名:二男勝連)平安名主、南風原主、西原主、平敷屋主、名安呉主、次女真亜佳度金

初代濱川勝連按司の子供 長男濱川勝連按司(望月按司、長女真武樽金、勝連子、冨藏按司、真壁按司、高花按司、次女真加戸金、八重瀬按司

参考資料 古琉球 三山由来記集 第一編琉球三山萬案録(長濱系図)(p34~35)

白髪の世あすたべ・金城大親(二男賀通連)東礼

李朝世宗実録 永楽16年(1418年)八月十四日 琉球国王(勝連城)二男の賀通連という名の使者

前の時代から勝連城は琉球國「大国(うくに)」と呼ばれていた。

白髪の世あすたべ・金城大親(二男の賀通連)東礼

系図座 武田家紋 白楊基:金城信懐親雲上 楊布(屋慶名)

参考資料:那覇市史 歴代法案第一集抄(p107、109、112、117)

参考資料  琉球王女 百十踏揚  著者 与並 岳生

尚真王叔父さん真武(田)太親部

尚真王 王きゅう麻勃都 

参考資料:那覇市史 歴代法案第一集抄(p180)

尚真王 王きゅう麻勃都は真武(田)太親部【御手掛けの兄)以下子孫の東礼子

尚真王のお母さんの兄弟真武田親部、東礼子です

参考資料:西原町史第五巻き資料編四(p412)

尚真王のお母さんの兄弟真武田親部、東礼子の証明

道光十年(1830年)勝連按司の子孫、屋慶名の按司墓への参拝 墓現存

系祖の真むた(武田)親部、子が東礼子となずけられたこと

あがるい墓(東礼墓 アガリ一門 と記載あり

参考資料:西原町史第二巻き資料編一(p194~195)

真むた親部以前の遠祖

屋慶名渡口原の湾の按司の墓 (現在も現存しています。ギシクト(ツ)グチバルその時代はでした。土地改良などでその地は畑に変わる。

地元の古老はその墓に行く坂道の入り口がト(ツ)グチと呼ばれています。

君きよらの按司加那志の墓

西原町史第二巻き資料編一(p200)記載あり

 

勝連按司は三代目の舜馬順煕王の王子

西原町史第二巻き資料編一(p297)記載あり

勝連按司の弟三男にて湾(大島郡和泊町畦布字名波武田)の按司と云

湾は現在の畦布字名波武田にあり湾門山頂上の大和城の湾のこと。現存、

真武田親部【御手掛けの兄)以下子孫の東礼子

西原町史第五巻き資料編四(p412)

夏王朝(夏礼久)から安東将軍倭国王のうあがり(安東)時代

時を刻み尚真王の叔父さんが真武田(武田)親部東礼す。

現代もよく使われている言葉 あがり、うあがりそしてH.Y(東屋慶名)です。

まとめ

第二尚家 尚真王までの流れの中で鎌倉幕府の波武田が琉球王朝に関係しているデータを示しました。

新しい視点からこれからの琉球王朝の研究に期待します。

 

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仲地弘和
家系
氏集首里・那覇
八番31頁 白氏 名乗頭字・信
大宗白楊基 金城親雲上信懐
家紋:武田菱、四つ割菱
勝連濱川按司御子二男勝連「屋慶名主(楊布主)」

前原高校を経て
琉球大学農学部卒業

調査に月日を重ね続けるなか
うるま市郷土地元と琉球の歴史に興味が湧き
資料を集め30年が過ぎる。

その資料を再考察し自分が感じた事
先祖の歴史を基礎に、
琉球の先人達
郷土史家伝説の資料から導き出した
自分独自の琉球歴史観を記しています。

少しでも琉球郷土史に興味を抱いている方々の
参考にしていただけたらと思い書いています。

学問的に歴史研究家
先生方に師事し学んで無いので
多々間違いも多くあるものと思います。
参考程度で読んでもらえたら幸いです。

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