金満按司は国頭奥間村に治金術を伝えた方で、奥間大親の御子である。

琉球按司系図

最初の金満按司
免武登能太祖の次男北山大按司の子
今帰仁按司の七男沢岻世主
その御子
三男金満按司がいます。

次に
源為朝の御子
金満按司がいます。
母は北谷村の奴留である。
在所、北谷村の桑江と言う家にある。

源為朝の御子に中城按司がいます。
その中城按司の御子で
源為朝の孫の金満按司がいます。

時代に伴い、金満按司がいます。
今回は察度王の父
奥間大親の御子金満按司です。

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金満按司

在所は宜野湾真志喜村の奥間と言う家である。
按司は唐大和往復し金銀を沢山稼いで
国頭奥間村に治金術を伝えた初めての方である。
御子は一男一女をつくり
後、父のの相続の為に宜野湾真志喜村に帰郷する。
後室は真志喜村の奴留である。

御父:奥間大親
在所は、奥間と言う家である。
玉骨は真志喜村の下白浜の前の高岩の上戌玄に向かう墓にある。

祖父辺士名里主である。

金満按司の御子

奥間親方
 母は国頭比地村安佐慶の娘である。
 長男奥間大親
  在所は国頭奥間村根屋の東りと
  言う家である。
  長男国頭親方
   唐大和往復せられて後
   首里に行く
  次男源川大主
  三男平良大屋子

長男宜野湾親方
 父を相続する。
 長男奥間親雲上
 次男伊佐大主
 三男牧港親雲上
 四男高安大主
 五男安謝掟

次男本部親方
 親方は喜界島へ御使者として行き
 帰国の後、本部地頭職に
 任じられる。

三男新城親方
 親方は具志頭仲座村、花城村
 屋敷囲い
 仕立て初められ
 後、具志頭新城村で住み
 世を終わる。
 在所は外間と言う家である。

四男阿波根親方
 親方は兼城兼城村、潮平村、
 屋敷囲い初め置かれて
 後、兼城阿波根村で死去する。

五男我那覇親方
 親方は豊見城名嘉地村、座安村
 屋敷囲い仕立て置かれて
 後、高安村、嘉数村、真玉橋村
 屋敷囲い仕立て置かれて
 後、豊見城饒波村に住み死去する。
 在所は大殿内である。

七男西銘親雲上
 母は浦添城間小湾の娘である。
 親雲上の王、武寧王が尚巴志に
 殺され、因って久米島に行く
 後、伊平屋勢理客村に行く
 在所は伊礼と言う家にある。

八男小禄親雲上
 母は小禄村並里の娘である。
 親雲上は牛馬の療治者であるが
 後、久須按司の後裔の世子となる。
 在所は小禄村の赤嶺と言う
 家にある。

九男内間大屋子
 母は浦添村の根屋の娘である。

十男西平大屋子
 母は伊平屋諸見村の安佐慶の
 娘である。
 在所は伊平屋勢理客村で隠居して
 世を終わる。
 長男東江大屋子
 他に七人おる。

十一男松元大屋子
 母は宜野湾我如古新地の娘である。
 在所は浦添西原村の座神と言う所
 にある。
参考文献
琉球祖先宝鑑
著者:慶留間知徳


まとめ

琉球天孫氏兄弟の北山大按司の
四代目金満按司から
源為朝の御子金満按司
孫の金満按司がいます。

今回は奥間大親の御子金満按司です

金満按司・その御子の業績
金満按司は唐・大和貿易で稼いだ
財貨で
國頭奥間村に治金術を教えた初めての方である。

金満按司の御子
三男新城親方
 具志頭仲座村、花城村を
 はじめられた方
四男阿波根親方
 兼城兼城村、潮平村を初めて
 つくられた方。

五男我那覇親方
 豊見城名嘉地村、座安村
 高安村、嘉数村、真玉橋村
 を初めてつくられた方。

七男西銘親雲上
 武寧王の臣下として活躍する。

八男小禄親雲上
 牛馬の療治者として貢献する。

最後まで読んで頂きありがとうございました。

仲地弘和
家系
氏集首里・那覇
八番31頁 白氏 名乗頭字・信
大宗白楊基 金城親雲上信懐
家紋:武田菱、四つ割菱
勝連濱川按司御子二男勝連「屋慶名主(楊布主)」

前原高校を経て
琉球大学農学部卒業

調査に月日を重ね続けるなか
うるま市郷土地元と琉球の歴史に興味が湧き
資料を集め30年が過ぎる。

その資料を再考察し自分が感じた事
先祖の歴史を基礎に、
琉球の先人達
郷土史家伝説の資料から導き出した
自分独自の琉球歴史観を記しています。

少しでも琉球郷土史に興味を抱いている方々の
参考にしていただけたらと思い書いています。

学問的に歴史研究家
先生方に師事し学んで無いので
多々間違いも多くあるものと思います。
参考程度で読んでもらえたら幸いです。

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