尚宣威王の退位、死、「諡 義忠」の謎を紐解く意味するものとは

琉球按司系図

半年で琉球王を退き、直ぐに亡くなる。
その死に疑問を感じ、思うところを書いてみました。

気になる「諡 義忠」を調べて分かったこと

もしも暗殺で死亡した場合、前王の弟を殺めるほどの琉球王府内の勢力、
王府内に存在する派閥とは、どんな力・グループなのか調べてみたくなりますね。

尚宣威王の亡き後の尚真王の閣僚、三司官はどんな氏名なのか調べて見ました。
今回その二方向から尚宣威王の退位、死の謎を考察してみました。

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尚宣威王について

尚宣威王(しょうせんいおう)1430年~ 1477年9月11日
琉球王国第二尚氏王統の第2代国王(在位1477年)の在位期間です。

初代国王尚円の弟。神号は西之世主(にしのよのぬし)、諡(おくりな)は義忠

諡(おくりな)、あるいは諡号(しごう)とは、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである

兄・尚円即位後は、越来を領地として、越来王子と称した。

尚円王が1476年に死去すると、翌年、世子・尚真がまだ幼なく群臣の推挙により王に即位した。

しかし、1477年の2月、陽神キミテズリが出現して、その神託によってわずか半年で退位した。
神託は女官を掌握していた尚真王の母・宇喜也嘉(オギヤカ)が仕組んだものと考えられている。

退位後、越来に隠遁し程なく死去した。
越来の地は、息子の朝理(長男、向氏湧川殿内一世)、朝易(次男、湧川殿内二世)の領地となった。

尚宣威王御子
長男・尚儲、越来王子朝理(生年不伝 ~1534年)向氏湧川殿内一世
次男・尚鼎、見里王子朝易(1457年~- 1537年)兄朝理の家督を継ぐ。
長女・居仁(尚真王妃)

尚宣威の他の兄弟にかんしては別記事を参考

尚宣威王に琉球王府が贈った諡(おくりな)源義忠とは。

諡(おくりな)、あるいは諡号(しごう)とは、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。
尚宣威王の半年の事績の行為に対する。琉球王府の返答です。

源義忠とは

清和源氏の中の河内源氏四代目棟梁。源義家の死後河内源氏の家督を相続、伊勢平氏と和合して勢力の維持を図ったが、後、同族源氏に暗殺された

伊勢平氏(いせへいし)は、平維衡よりはじまる平氏一族の一つである
伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となる平清盛

河内源氏3代目棟梁・源義家の3男として誕生。
義忠は祖父・源頼義に似ていたと父に言われた。

若年より帯刀長・河内守・検非違使などを歴任する。
朝廷は義忠を河内守などの要職に就けた。

義忠は兄弟の義親・義国が謀反や乱暴などの理由で朝廷から討伐や流罪にされ、父源義家の死後に家督を継いだ。

1106年に父が死去すると、河内源氏はその勢力を弱り縮小した。
また、義忠の兄・義親が西国で乱を起こす。

河内源氏より伊勢平氏が優勢になり始める。

朝廷は、摂関家とゆかりの深い河内源氏に替えて伊勢平氏を露骨に登用するようになる
河内源氏は衰退期を迎えた

義忠は河内源氏を支える為に、僧兵の京への乱入を防ぎ、新興の伊勢平氏と折り合いをつけるのに必要な策を考え、
平正盛の娘を妻にした。

平家との和合をはかり、妻の弟で平正盛の嫡男の烏帽子親となって「忠」の一字を与え「平忠盛」と名乗らせ親密な関係を築いた。

伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となる平清盛の父である

源義忠は院政にも参画し、摂関家とのいい関係も維持する努力した。
その結果、「天下栄名」と評せられるようになった。

「天下栄名」とは、 世の中・世間に「天下に名を知られる」「天下に恥をさらす」と言う意味がある。

河内源氏の中では新興の伊勢平氏との対等の関係を結んだ義忠のやり方に源氏の中に不満も多く、

伊勢平氏と和合し院政とのいい関係ができ、源義忠の勢力が強くなったことに
快く思わない源氏の一族が存在した。

源義家にくらべ武威に劣る義忠を、自らが取って代わろうとする源氏勢力も存在した。

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そして源義忠暗殺事件が起こる

義忠の叔父の源義光は義忠の力が強くなるのに不満を感じ
自らが河内源氏の棟梁になる望みをたくし
長男、源義業の妻の兄、鹿島三郎に義忠を襲わせた。

1109年2月3日、義忠は鹿島三郎に襲われ重傷を負い、2日後に死去した。享年27である。

 

源義忠死後

義家・義親・義忠・義綱と源氏一族は実力者を失い、河内源氏は源義光・源義国・源義時・源義隆を残すだけになった。
そのため、河内源氏の勢力は関東でも徐々に衰え始める。

義忠の死後は源為義が河内源氏の棟梁となった。
為義は少年であったために、河内源氏は伊勢平氏の勢力に対抗できない存在になってしまった。

河内源氏の復興は為義の子・源義朝に託されるがそれも叶わず。
御子の源頼朝を待たなくてはならない状況であった。

源義忠の死後は平氏全盛となり河内源氏は我慢を余儀なくされた。

 

源義忠の業績

源義忠は平家から妻をもらい、平家一族といい関係が出来き
院政ととても良い関係で源氏の勢力が強くなっていた。

しかし同じ源氏一族の中の源義忠に対する勢力で暗殺されてしまう。
河内源氏は衰退し、次の時代の源為義の子・源義朝御子の源頼朝まで我慢を強いられる。

尚宣威王を取り巻く平氏の野望

伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となる祖父の平清盛、
清盛の孫平資盛が喜界島に流れ着き、喜界島豪族の娘との間に御子も生まれている。
平資盛は伊勢平氏(いせへいし)の祖平維衡よりはじまる平氏一族である

尚宣威王の長女・居仁(尚真王妃)と尚真王との御子を尚維衡となずけたのは、
未来に夢を託した伊勢平氏の祖平維衡、喜界島、平氏の一族の希望の夢の維衡だった

琉球源氏一族がそのことを知らなかったとは、考えにくい。
その為に、尚宣威王に琉球王府が贈った諡(おくりな)の源義忠ではないのか。

死に関しては、病気、自害、暗殺どちらで亡くなったかは、読者にまかせたい。
子孫の安泰を願う親からは、自害を選んだのかもしれない。

後裔が滅びることなく、一時期を除き、繁栄しているから尚宣威王自ら責任をとったと思います
自説ですが。

また尚宣威の妻の一族は平氏だったと確信もっています。
喜界島、伊平屋、伊是名島に住む平氏一族の名の調査が必要です。

尚王朝は尚宣威王の子孫を冷遇したようです。
子孫は魏氏を名乗り4世見里按司朝副までは
御殿家の家格を維持します。

五世朝首が養子の為に格下げされ殿内家になりました。
五世の越来親方朝首、八世越来親方朝誠が三司官になりました。

それまで魏氏だった姓も1691年系図座設置の時に向氏を賜っています。
11世からは湧川親方を名乗ります。



尚宣威王の亡き後の尚真王の閣僚、三司官

尚真王代からの閣僚
馬怡世
馬審礼
真牛金・幸地大屋子森
馬誠驥・国頭親方正鑑 尚真、尚清

毛文英・沢岻親方盛里 (正徳年 ~1526年死亡) 尚真、尚清

馬思良・国頭親方正胤 (正徳年~1537年)尚真、尚清

尚円王がまだ無官だった頃に、王を助けた奥間カンジャーの忠臣、馬氏して毛氏などが
平氏系統の王尚宣威王を阻んだと思われる

尚宣威王の退位、尚維衡の即位阻止、子孫、一族に対する冷遇は、其の名「維衡」にある



まとめ

尚宣威王と諡(おくりな)義忠についての名の意味・内容

尚宣威王の退位と尚維衡の即位阻止の理由

尚維衡の名の「維衡」は何処から来たのか
尚宣威王の退位、後の死について暗殺、自害どちらなのか

尚宣威王に退位を促した、王府内勢力の存在について
尚宣威王の一族の行く末

最後まで読んで頂きありがとうございました。



仲地弘和
家系
氏集首里・那覇
八番31頁 白氏 名乗頭字・信
大宗白楊基 金城親雲上信懐
家紋:武田菱、四つ割菱
勝連濱川按司御子二男勝連「屋慶名主(楊布主)」

前原高校を経て
琉球大学農学部卒業

調査に月日を重ね続けるなか
うるま市郷土地元と琉球の歴史に興味が湧き
資料を集め30年が過ぎる。

その資料を再考察し自分が感じた事
先祖の歴史を基礎に、
琉球の先人達
郷土史家伝説の資料から導き出した
自分独自の琉球歴史観を記しています。

少しでも琉球郷土史に興味を抱いている方々の
参考にしていただけたらと思い書いています。

学問的に歴史研究家
先生方に師事し学んで無いので
多々間違いも多くあるものと思います。
参考程度で読んでもらえたら幸いです。

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