義本王の御子本部大君と満名子は同人物である。
本部大君の長男本部大主は健堅大主である。
本部大主の御子に健堅大親がいて
兄弟姉妹に志慶真乙樽がいます。
健堅大親の子中城親雲上
その御子三男も健堅大親と呼ばれています。
本部大君(満名子)について
義本王の御子本部大君と満名子は同人物である。
本部大君の御子長男本部大主、別称健堅大主がいます。
本部大君(満名子)は、大成王世代(1242年生まれ、即位1300年、1308年死去)である。
本部大主、別称健堅大主
本部大主、別称健堅大主の御子に
健堅大親と娘志慶真乙樽がいます。
義本王系統の本部大主
英祖王二男湧川王子御子次男湧川按司
本部大主(健堅大主)の養子になり
健堅大親と称する。
その御子北山城主怕尼芝王がいます。
北山怕尼芝王は明国と通じ、
入貢する。
健堅大親
健堅大親
本部の地頭職に任じられた。
父:健堅大主
祖父:満名子(本部大君)
在所は本部健堅村根神屋と言う
家にある。
曽祖父:義本王
健堅大親の御子
本部親雲上
母は浜元大主の娘である。
在所は具志頭具志頭村新地と
言う家にある。
そこで世を終える。
後、本部屋号を改め本部と称する。
御子三男五女おる。
瀬底親雲上
母は湧川親雲上の娘である。
饒波親雲上
母は満名屋の娘である。
在所は豊見城饒波村の上里と
言う家にある。
具志堅大屋子
母は上間屋の娘である。
在所は真和志具志堅村の花城と
言う家にある。
上間大屋子
母は泊大屋子の妹である。
在所は中城当間村の山田と言う
家にある。
中城親雲上
母は比嘉親雲上の娘である。
在所は中城熱田村の座神屋にある。
中城に義本王の碑があり、
色々義本王関係の情報があるのは
健堅大親の御子中城親雲上
曽祖父が義本王であり
それに起因するものである。
義本王の御子
本部大君
在所、本部並里村の根所にある。
御子
・長男本部大主
・長男湧川按司(=健堅大親)
その長男中城親雲上
御子長男諸見里親雲上
二男伊是名親雲上
三男健堅大親
四男新里大主
五男安室親雲上
・大主娘:志慶真乙樽(北山世
主今帰仁按司の側室)
・二男運天大主
本部並里村、本部満名村は合併され本部並里村になる。
現在、本部並里村には満名川があります。
満名子とは本部満名村の娘との御子なのでしょう。
英祖系統玉城王世代(1296年生、1314年即位、1336年死去)
玉城王世代の健堅大親の
御子中城親雲上がいます。
玉城王世代の健堅大親の御子中城親雲上
英祖王統最後の西威王(1328年生、即位1337年、1349年死去)
健堅大親の子中城親雲上御子、三男健堅大親がいます。
察度王(1321年生、1350年即位、1395年死去)
1372年には冊封使がはじめて渡来した。
洪武帝は1372年に中山王察度を招諭した際、
健堅大親の功績を讃え、幣帛(絹)と石碑を贈ったとされており、
大親はこの石碑に馬の顛末を刻して健堅浜に建て、
健堅浜はその後「唐泊」と称されるようになった。
と『球陽』では伝えている。
健堅大親の上記の時代検証では
中城親雲上御子の三男健堅大親と考えられます。
察度王と三男健堅大親は義本王の系統の同一族であります。
察度王が明国と交易が出来たのは、
健堅大親の子中城親雲上御子
三男健堅大親の功績と推測できる。
北山怕尼芝王が明国と交易できたのは、先祖健堅大親の業績です。
参考文献
古琉球 三山由来記集
琉球祖先宝鑑
まとめ
当時の権力者は、母違いの御子達が多くいます。
自分の領地を視察に行きその地元で
宿泊し
夜の相手、地元豪族の娘と一夜、数日を過ごし御子ができます。
その御子は母の地元で育てられ地元の名前で呼ばれます。
その御子が心身優秀で能力を発揮しますと、側室の御子でも
父の跡を継いだりします。
御子らの権力闘争も起こります。
権力者の背景を分析するのに大事な要素になります。
英祖系湧川王子二男湧川按司は義本王系統本部大主(健堅大主)の養子
になる。
その御子に北山怕尼芝王がいます。
英祖王二男湧川王子御子長男今帰仁按司(北山世主)その後裔今帰仁子
の天孫系統の流れとは敵同士の為、争いが起こります。
天孫英祖系統湧川王子御子には今帰仁按司・今帰仁子系統と大舜義本王系統の二つの流れが存在する
ことがわかりました。
最後まで読んで頂きありがとうございました。