薩摩藩の支配下にあった琉球王国、
琉球と諸外国との通商を幕府は容認していた。
薩摩藩主島津斉彬はひそかに軍備増強を図っていた。
島津斉彬は琉球を経由してフランスよりの軍艦・兵器の購入や交易を計画した。
琉球王府高官のうち、薩摩に協力的でない琉球王府高官がいた。
反薩摩派の三司官,座喜味盛普(唐名は毛恒徳)の罷免
反薩摩派の三司官の座喜味盛普(唐名は毛恒徳)がいた。
薩摩は三司官の座喜味盛普(唐名は毛恒徳)の罷免を計り、
交代人事で親薩摩派は、慣例を無視する昇進速度で、
牧志朝忠(唐名は向永功)を日帳主取(外務次官に相当)に任命した。
薩摩藩主島津斉彬が急死することで島津の政変が琉球にもおよび
斉彬派(親薩摩派)の琉球官僚にも悲劇が起こります。
それが牧志恩河事件です。
斉彬派(親薩摩派)の琉球官僚
フランスとの交渉に薩摩の市来四郎、
琉球側は牧志朝忠や恩河朝恒(御物奉行、財務大臣相当)らが交渉人であった。
島津斉彬(1858年)の急死で、薩摩藩内で変化が起こり保守派の力が強くなり、
薩摩では斉彬派の西郷隆盛らが排斥された。
欧米との貿易などにも影響が出た。
琉球王府内にも同様に薩摩派と反薩摩派はお互いに薩摩の政変の動静に敏感に反応した。
薩摩の新しい島主島津久光は、琉球にも積極的に介入はしないと琉球王府内の反薩摩派確信した。
琉球王府内の反薩摩派の斉彬派(親薩摩派)に対する攻撃、報復
琉球王府内の反薩摩派は、琉球王府内の斉彬派(親薩摩派)に対し攻撃、報復を開始した。
薩摩派の三司官小禄良忠、玉川王子朝達(唐名は尚慎)、牧志朝忠、恩河朝恒らが、収賄や国王廃立の謀反容疑で1859年に逮捕された。
三司官小禄良忠、牧志朝忠、恩河朝恒等尋問、拷問にかけられ自白を強要される
1.牧志朝忠は自白し久米島に10年の流刑
2.恩河朝恒も久米島に6年の流刑
3.小禄良忠は伊江島に500日の流刑
恩河朝恒は刑確定前に獄中で拷問で衰弱死する。
玉川王子は津波古政正(唐名は東国興)が王母に訴えて
拷問も免れ、蟄居の身となる。
津波古 政正,東氏津波古殿内の十三世。唐名は東国興、童名は樽金。
牧志朝忠は薩摩藩の依頼で英語教授役とするため、
鹿児島への上国をする途中、伊平屋島沖で自殺した。
これに対し琉球王府の反薩摩派の暗殺説との意見もある。
牧志朝忠(まきしちょうちゅう、1818年~1862年没)
琉球王国末期の官僚
板良敷 朝忠(いたらしきちょうちゅう)とも呼ばれる。
首里生まれ、名は向永功。
牧志親雲上朝忠とも名乗る。
最初は板良敷、次に大湾、最後に牧志と称した。
1838年、冊封謝恩使に随行し北京に留学、中国語を学ぶ
帰国後、安仁屋政輔(東順法 与世山政輔)に英語を学び、1844年異国通詞になる
英国人宣教師ベッテルハイムから英語、仏人宣教師カションからも仏語を学んだ。
西洋船との交渉で、薩摩藩に能力を認められ、薩摩藩名義で褒賞される。
琉球に寄航したジョン万次郎から米国史と政治体制についての教えを受けた。
米国ペリー艦隊が来訪し、通詞として交渉にあたった
1855年に大湾(読谷村大湾)地頭、1858年に牧志(那覇市牧志)地頭となる。
牧志親雲上と名乗った。
市来四郎(1829年~1903年)
薩摩藩士。歴史学者
島津斉彬側近として琉球を通じフランス、外国の貿易を模索
島津斉彬の死後、島津久光の側近となる。
引き続き集成館事業(アジア初の近代的西洋式工場群)に携わり、大砲・火薬製造を担当。
1862年、以降は琉球通宝、天保通宝の鋳造にも関わった。
維新後は、島津久光の元で島津家に関わる史料の収集に携わる。
東洋一の大国、清国が敗戦し植民地化され、薩摩は衝撃を受け、次は日本、薩摩かもしれないという危機感を強く感じていた。
アヘン戦争前後、支配下の琉球へ異国船が度々来航し、逐一琉球から薩摩藩へ報告されていた。
1851年には、異国船が琉球に来航するようになっていた。
島津斉彬は現在の鹿児島市磯地区を中心に近代洋式工場群の建設に取り掛かった。(集成館事業)
特に製鉄・造船・紡績に力をいれ、大砲製造、洋式帆船の建造、武器弾薬、食品製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開した。
島津斉彬の集成館事業は軍事力だけではなく、殖産興業の分野まで他藩とは内容の違いがあった。
松村 宗棍(まつむらそうこん、1809年 ~ 1899年没)
琉球王国時代に活躍した沖縄の武術家
琉球王国時代の最も偉大な武術家
首里手系統の空手流派のほとんどは松村の流れを汲んでいる。
1809年に首里山川村(現在の那覇市首里山川町)で生まれた。
松村筑登之親雲上宗棍である
唐名は武成達、
位階は筑登之親雲上(チクドゥンペーチン)、
号は雲勇か武長と称した。
口碑では唐手(とうで)を佐久川寛賀に学ぶ
成人して役人として薩摩に渡り、伊集院弥七郎から示現流を学ぶ。
免許皆伝を得た剣術家でもあった
1836年、師匠の佐久川寛賀と北京へ渡り、北京王宮の武術教官「イワァー」のもとで中国武術も学ぶ
晩年
首里崎山町の王家別邸・御茶屋御殿で、弟子達に唐手を指導した。
弟子には、牧志朝忠、安里安恒、糸洲安恒、知花朝章、伊志嶺某、多和田某、本部朝勇、
本部朝基兄弟、屋部憲通、喜屋武朝扶、喜屋武朝徳親子、桑江良正、義村朝義、
ナビータンメーがいる。 91歳で没した。
まとめ
江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期に起こる日本、島津の出来事
その影響で琉球の地で起こる外国、国内の事情
牧志朝忠の様な素晴らしい才能を持った歴史官僚がいて地元民に知られてないのは
少し寂しい感じがあります。
ジョン万次郎、米国ペリー艦隊、 英国人宣教師ベッテルハイム、仏人宣教師カションの有名な方々、出来事に関係があった琉球人がいたことは素晴らしいことです。
歴史的には罪人だが琉球に貢献した人物です。偉人に対し心からありがとうございました。
最後まで読んで頂きありがとうございました。